吹き荒れる粛清の嵐(六)
自綱の命ずるまま牛丸家討伐に加わった廣瀬山城守宗域も、その弟兵庫頭宗直も、遺恨のあった牛丸家を恨みに任せて滅ぼした後は、我が身とて必ずしも安穏としていられないことにようやく思い至ったものか。自綱のこれまでの行状を鑑みれば、彼の精神が常軌を逸していることはもはや明白であった。
古くは鍋山左衛門佐に始まり、岡本豊前守、そして嫡男宣綱に切腹を命じ、今年に入ってからも鍋山豊後守顯綱を殺害した自綱。顯綱に至ってはその処断の表向きの理由の一つが、八年も前に武田家に通じたという真偽不明の疑惑に過ぎないものであった。
また岡本豊前守と鍋山顯綱は、本人のみならずその妻も同時に殺害されており、自綱が両名に抱いていた怒りや怨念が根深いことを思わせる処断であった。
廣瀬山城守の知る限り、こういった人々は自綱に対し謀叛を企てていたわけでは決してなかった。彼等の行状は、自綱の意思決定に疑義を抱き諫言に及んだ、というものに止まっていた。
つまり処断される正当な理由が見当たらない。
牛丸家が討伐対象にされた経緯も不可解なものであった。
八日町の戦いで手柄のあった牛丸家は何故小鷹利城を逐われなければならなかったのか。
廣瀬山城守は、遺恨のあった牛丸家討伐と聞いてその話に飛びつきはしたが、こうやって実際に相手を逐ってみると、唇が亡んだ後の歯にも似て、寒い思いを禁じ得ない。
しかも困ったことに、自綱相手に降伏赦免を願い出ようにも、現下廣瀬家は三木家と事を構えたわけではなかった。敵対しているわけでもない相手に赦免を願い出るほど難しいことはない。
三木家と廣瀬家の関係は、現時点を絶頂期として、あとは悪化するしかないのである。もはや廣瀬が自綱の討伐を受けることは時間の問題といわねばならなかった。
山城守宗域は自家の存続をかけて、舎弟兵庫頭宗直に諮った。
「いま、飛騨国内の情勢を鑑みるに、三木家に対抗できる家は存在せず、近年の御本所(自綱)の行状を見れば当家が追討を受けるのは、ただその時期が早いか遅いかだけの問題であって、どうやら避けがたい運命のように思われる。こうなってしまった以上は、当家は累代の廣瀬郷を捨て去り、三木家の組下に参じてでも家名を残す、これぞ肝要と考えるが如何に」
要するに廣瀬山城守は、曾ては「三カ所廣高」の呼ばれて飛騨を代表する家柄だった家名を捨ててでも、生き延びることを画策したのであった。
無論俄にこれを良とする宗直でもない。古くは二百年以上前の応安五年(一三七二)に、時の管領細川頼之より、飛騨の山科家領を、守護家人垣見一党から取り戻すよう命じられるほど有力な一族だったことを、宗直もよく知っている。この飛騨という国に根ざしてきた年月からいえば、廣瀬が三木の組下に参ずるなど、プライドの許すところではなかった。
しかしそれなど小児のこねる駄々に等しい感傷といわざるを得ない。結局は宗直も、兄が示した方針に賛同するより他なかった。三木家に対抗できる家はもうないという飛騨国内の趨勢は明らかだったのである。
廣瀬山城守は先祖累代の拠った廣瀬高堂城を引き払い、その足で松倉城の門を敲いた。自綱の旗本に参入を願い出るためであった。
「廣瀬殿の御心懸け、まこと殊勝なり」
当初自綱は廣瀬山城の申し出を激賞し、これを厚遇することを誓った。
廣瀬山城守が喜んだことは言うまでもない。自分の選択の正しさが証明されたと思ったのだ。しかしそれは早合点であった。
自綱の耳の奥には、今もしょっちゅう亡き宣綱の声が響いていた。殊更に自綱の猜疑心を煽り、その身を破滅に導こうとする曾ての嫡男の声に、自綱は始終いらだっていた。
自綱はある日突然次のように言い出した。
「廣瀬山城は三木家の旗本に参ずるなどと称して身に近づき、殺そうと企てておる」
自綱がこのようなことを言い出したからには、間もなく廣瀬山城守殺害命令が下るものと考えねばならなかった。案の定、自綱は安江与茂三郎光貞に廣瀬山城守暗殺を命じ、哀れ廣瀬山城守宗域は首を刎ねられた。
舎弟兵庫頭宗直は兄の横死を聞いて三木家を逐電した。
宗直が向かった先は、越前大野郡の金森五郎八長近の許であった。




