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飛州三木家興亡録  作者: pip-erekiban
第三章 三木自綱の野望
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吹き荒れる粛清の嵐(五)

 このような血生臭い事件を経て障害を取り払った形になった自綱よりつなは、遂に牛丸追討の軍を発した。

 牛丸家に謀叛の心根など微塵もなかったことは、小鷹利城が三木勢と廣瀬勢の攻勢を前に一日も持たず陥落したことからも明らかだろう。

 牛丸又右衛門綱親とその嫡男又太郎親正は、俄に攻め来たった敵を、当初は廣瀬山城守の手勢だと勘違いしたという。

 小鷹利城攻略軍には廣瀬勢も加わっていたのだからそれも全くの見当違いではなかった。かかる見当違いには伏線があって、詳細は不明ながらこの二年前に牛丸と廣瀬の間で争いがあったという。

 しかし小鷹利城に攻め寄せてきたのは廣瀬山城守単独ではなかった。主力は三木自綱の軍であった。

 相手が廣瀬山城単独というのであれば戦意を失う牛丸又右衛門でもなかったが、その主力が三木勢と聞いて俄に戦意を喪失したらしい。牛丸一党はほとんど身ひとつで小鷹利城を棄て、落ち延びることを決断した。

 しかし寄せ手はかねてより小鷹利城攻略、牛丸追討を準備してきた三木勢だけあって追撃は急であった。落ち延びようという牛丸一党は角川つのかわで追いつかれた。牛丸家の家老後藤(ごとう)帯刀たてわきは主君を救うべく殿軍を買って出て華々しく散り、ここ角川において六十二年の生涯を閉じたと伝わる。

 牛丸一党は一旦越中へと抜け、その後越前に落ち延びて越前青龍山城主金森五郎八長近を頼ったと「飛州軍乱記」は伝えている。

 長近に謁見した牛丸又右衛門綱親が臣従の証として差し出したのは八日町で又太郎親正が江馬輝盛から分捕った名刀小鴉丸(こがらすまる)だったという。

 

 さてここに、これまでの三木家に大きな影響を及ぼしてきた一氏族の没落にも言及せねばなるまい。三木みつぎ宣綱のぶつなの切腹に絶望し、飛騨を逐電した塩屋筑前守秋貞一党のことである。

 塩屋筑前が越中栂尾(とがのお)に落ち延びた事情は先述のとおりであったが、飛騨を棄てて新天地を求めたその道のりは決して順調ではなかった。というのは、彼が拠った越中というところは、まさに織田家と上杉家がぶつかり合う最前線であった。一瞬の判断の誤りが命取りになる過酷な前線で、塩屋筑前は遂にその誤りを犯してしまう。

 他の越中諸将が織田方と上杉方を柔軟に往来していたこの時節、塩屋筑前は一貫して織田方としての立場をとり続けていた。商人出身で、三木家が飛騨に雄飛したころにはその商機を過たず捉えた塩屋筑前も、二度まで三木家を出奔した前歴に負い目があったためか、このころともなると主家を取っ替え引っ替えする柔軟性を失ってしまっていたものと見える。曾てのような威勢を失った織田方の越中主将佐々成政に忠節を示す必要に迫られ、上杉方に転じた齋藤信利を攻撃しなければならなくなったのである。

 より具体的にいうと、最初は上杉家に属し、その後織田方の優勢を見てこれに転じ、更に本能寺の変後、上杉方に靡いた無節操な齋藤信利の攻略を命じられたのである。

 しかし齋藤信利は上杉方の助力を得て塩屋筑前を退けた。

 敗残の塩屋筑前がこの期に及んで頼ろうとしたのは飛騨三木家であった。

 塩屋筑前は長男監物、次男三平と共に飛騨へと落ち延びる道中、齋藤信利の追っ手に追いつかれた。


「もうここらあたりでよかろう」

 それまで南に向けて必死に落ち延びていた塩屋筑前が馬を止めた。

「なにを仰せか。さ、早う」

 監物が父をき立てる。しかし筑前に動く様子はない。

「思えばわしは先々代和州公(直頼)のころより三木家のご恩顧を蒙った身。その三木家を出奔した頃より、わしの運命は定まっていたのだ。わしはここに亡ぶが、汝等は生き延びよ。士分など棄ててめいめい落ち延びるが良い。侍になど二度となろうとするな」

 筑前の言葉に子の両名は

「では父上も落ち延びて士分を棄てれば良いではありませんか。親子三人力を合わせれば、草の根かじり泥をすすってでも生き抜くことは出来ましょう」

 となおも勧めるが、もはや塩屋筑前はその老身を一歩たりとも前に進めることが出来ないほどくたびれ果てていた。

「わしに構ってもたもたしておれば汝等まで討たれかねん。く逃げ延びよ」

「しかし……」

 逡巡する兄弟の耳に侍の怒号と草の根を乱暴に分ける音が聞こえてきた。

「疾く行け!」

 塩屋筑前は二人の馬の尻を打った。

 騎馬の狂奔するに任せ逃げ散る両名。

 塩屋筑前が子の背中を見送った、これが最後であった。

 塩屋筑前は越中西猪谷において齋藤信利手勢に追いつかれて、鉄炮にて撃ち落とされ死亡したと伝わる。

 時に天正十一年(一五八三)三月二日、塩屋氏はここ越中西猪谷に滅亡したのであった。

  

 監物と三平の行方は杳として知れなかった。父の遺言を守り、士分を棄ててひっそりと余生を過ごしたものであろうか。

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