吹き荒れる粛清の嵐(三)
「主君押込」とは所謂クーデターの一類型である。江戸期には不行跡を重ねる主君に対して諫言を重ね、それでも行状が改まらないような場合に敢行された非常手段であった。主君の不行跡を理由とした改易の沙汰を防ぐために敢行されたものである。
無論かかる行為は江戸期の専売特許ではない。似た事例は室町時代後期にも見られる。代表的なのが「明応の政変」である。
時は第十代将軍義稙の治世であった。義稙は先代義尚に続き、寺社本所領の押領を是正するために近江六角高頼攻めを敢行し、返す刀で河内の畠山基家を攻撃する。更に畠山の次は越前朝倉家の討伐を考えていたようである。打ち続く戦争に、参陣した大名もいい加減辟易したという。
そこで管領細川政元は日野富子と語らって義稙排除に動く。
富子にとって義稙は、実姉の子であり甥に当たる人物であった。実子義尚死後、富子は甥義稙擁立にテコ入れした経緯もあるにはあったが、諸大名の支持を失いつつあった義稙と共倒れするつもりは富子にはなく、その排除に動いたほどだったから、義稙はよほど人心を失っていたのであろう。
富子と政元は天龍寺僧だった堀越公方足利政知の子息を秘かに還俗させて、第十一代将軍に就任させた。これが足利義澄である。義稙が河内に出兵し、不在京の頃を見計らってのクーデターであった。
新将軍義澄とその一党が差し向けた追っ手はたちまち義稙を逮捕していまい、憐れ前将軍となった義稙は、座敷牢に閉じ込められてしまったという。
この一連の事件を「明応の政変」と称し、これを以て戦国の世が始まったと現代では位置づけられている日本史上の重大事件である。
余談ながら義稙は、後にこの座敷牢から脱出して周防太守大内義興の許に奔り、大内の助力を得て将軍に還任している。
この事件からも分かるように、義稙は諸大名の支持を失いつつあった。謂わば不行跡を理由に細川政元と日野富子によって押し込められたのであり、その意味では「主君押込」の嚆矢をこの事件に見ることができるかもしれない。
そして「明応の政変」の事例からも分かるとおり、なにも押し込める側は自分が主君に取って代わりたいから押し込めに及ぶわけではなかった。その証拠に政元も富子も、自分が思うさま権力を振るおうとしたのではなく、ただ足利将軍が諸大名の支持を失うことを恐れてこのような行為に及んだのである。
その意味では鍋山豊後守顯綱が秀綱を後継者に押し立てて、自綱の押込に言及したことは、こういった「主君押込」に通底する不文律を踏襲したものであった。
「これぞ忠義である」
という顯綱の言葉も、あながちゆえなき話ではなかったのである。
しかしそれにしても焦れったいのは両者のやりとりを周りで見ていた人々だ。
顯綱が主家を思い、血を吐くような声で言った言葉も彼等の心に響かないものか、誰ひとりとして顯綱に合力しようという者がない。
江戸期に行われた押込にしても明応の政変にしても、事前に周到な準備がなされていたからこそ成功したのであり、顯綱のように事前準備もなく弁舌のみによってその場の人々の心を動かそうというのは、よほど巧みでなければかなうものではなかった。
人々は怪訝そうな顔を見合わせるばかりで、しまいには自綱の
「この謀叛人を引っ立てろ。この者は曾て武田に通じて己が栄達を求めた不忠者である。容赦するな」
という言葉に従って、顯綱をがんじがらめにふん縛ってしまう始末であった。
自綱の言葉は、信玄死去後、信長の要請に従って武田の同盟相手だった郡上の両遠藤を攻めたときのことを指していた。このとき武田家との取次を勤めていた鍋山顯綱の許に、武田勝頼からの恫喝の手紙が届けられた経緯は前述のとおりだ。
文中で勝頼は
「自綱は容赦しないが顯綱とは今後も入魂の間柄でいたい」
と書き記しているところから見ても、この手紙は三木家中の離間を謀る目的で送り込まれてきたものであったが、自綱は既に武田が滅び去った今になって、八年も前の出来事を蒸し返して顯綱を処断しようというのである。その執念深さ一つとってみても、自綱が正気を失っていることは明らかであった。
そして自綱の命令に従って顯綱を捕縛しようという人々は、自綱がいままさに
「一族の諫言に耳を傾けなされ。ご自分の間違いをお認めなされませ」
という宣綱の声に苛まれていることなど知る由もない。
自綱にとってそういった声は、板壁の継ぎ目や床の目地から聞こえてくる不可解な声であった。
(顯綱めが宣綱の名を連呼するからこのような声が聞こえてくるのだ。宣綱の声を止めるには顯綱を殺すしかない)
自綱の脳内に、嵐のような憎悪が吹き荒れる。仮にこの憎悪の念が可視化されたとしたら、それでも人々は自綱の沙汰に従っただろうか。
果たして鍋山豊後守顯綱の処刑は実行された。
「飛州志備考」所収「高野山過去帳」に記されている
慶光院快庵俊公 天正十一年(一五八三)正月廿五日
が、鍋山豊後守顯綱の法号と伝えられている。
なお刑場に立つ舎弟顯綱に対し、自綱が放った言葉は
「我が三木家に内訌などあってはならぬ。そうなる前に死ね!」
というものであった。
自綱の念の入れようは尋常ではなかった。
顯綱の首が晒されたその隣には、顯綱が国主の座を望んで謀叛を企てたという罪状の記された高札が掲げられた。
三木家の内情を知らず高札だけを見た人々により、顯綱は謀叛人として記憶され語り継がれることになった。悪いことに後年、三木家は飛騨における地歩を全く失ってしまうことになるのだが、そのために顯綱は名誉を回復する機会を永久に失うことになってしまうのであった。
養父鍋山安室追放については史実ではなく、顯綱の強欲悪心を誇張するために創作された伝承に過ぎないことはいまでは明らかであるし、顯綱が武田と通じた明白な証拠も存在しない。
その点、顯綱の名誉のために特記しておかねばなるまい。




