八日町の戦い(十四)
各種軍記物に記される八日町の戦いの様相は様々である。前述の「飛騨略記」では、廣瀬、小島、牛丸といった国内補完勢力が自綱に合力して入れ替わり立ち替わって輝盛と争い、輝盛は自ら一文字の薙刀を振るい駆け回っているうちに味方とはぐれ単騎となり、馬の脚を休ませるべく荒城川において薙刀を洗っていたところ、俄に出現した牛丸又太郎に一騎打ちを挑まれ、最初こそ丁々発止これに応じていたが、なにを思ったか突如薙刀を放り出し
汝大将ノ首ヲ取ル法ヤ知リタルヤ
と陳べ、若武者に首を打たせたという。
しかしこれなど輝盛の大丈夫ぶりを誇張するあまり前後に脈絡を欠いた奇妙な話になっていることに、「略記」の作者は気付かなかったのだろうか。
自ら首を差し出したというからには戦況を絶望視するほどの苦境にあったことが窺われるが、その劣勢ぶりが一切記されておらず、輝盛は突如目の前に現れた若武者に対して形ばかりの一騎打ちを演じたあと、
「汝は大将首を取る作法を知っているか」
と訊ねて首を授けたというのだから、これでは偉丈夫というより白痴に等しい。
これと比較すれば「飛騨国治乱記」に記す輝盛の最期は、まだ「ありそうな」話に仕上がっている。
これによれば牛丸又太郎が輝盛の眼前に出現する直前、輝盛は運悪く鉄炮で狙撃され、これが具足の隙間から飛び込んで深傷を負い、そのために抵抗を諦めた輝盛が
汝我ガ首ヲ取ラントナラハ是ヲ印ニセヨ
と言って牛丸又太郎に首を授けたとされる。
脈絡なく突如交戦を諦めた「飛騨略記」と比べれば遥かにありそうな話なので、本作もこれに準拠して最期を記している。しかし後述するが、輝盛の死を鉄炮による狙撃と断じる確実な史料は存在しない。
合戦の経過がより克明に記録されているのは「岐阜県史史料編」所収「大般若経巻六〇〇後書」である。
これによると合戦は
天正十年十月廿六日丑剋ニ、江馬方小島城下取詰処ニ、取合ニ付而、不及戦、荒木地へ引退、然処、翌日午剋ニ訅庵(自綱のこと)、三ヶ所之人数押寄、申時ニ及合戦、酉剋ニ輝盛討死、其外一家長衆数多戦亡
という経過をたどったようである。
二十六日の深夜に江馬方が小島城に押し寄せたが敗退して荒城までずるずると退き、日が昇った昼頃に三木勢やその加勢衆が押し寄せ、午後三時から午後五時頃までの間に合戦になり、輝盛が戦死したのは午後五時から午後七時頃までの間ということになる。
このように時系列に沿って正確性にこだわる「後書」であるが、一方で
江馬方小島城下取詰処ニ、取合ニ付而、不及戦(後略)
の部分はどう解釈すべきか。
そのまま読み下せば、
江馬方、小島城下に取り詰める処に、取合について、いくさに及ばず
となり、江馬方は戦うことなく荒木地(八日町か)に退いたということになる。
もし江馬方が小島城下に押し寄せながら戦いもせず退いたというのであれば、それは小島城の守りが存外に堅く、簡単に攻め落とせないことが明らかだったので退いたということになるだろう。
であれば江馬方に犠牲者はほとんど出なかったはずで、敵の後詰が押し寄せる前に一目散に高原に逃げ帰るべき局面と考えられる。しかし江馬方の撤退速度は驚くべき緩慢さであった。
「後書」には小島城下に取り詰めた江馬方が撤退を開始した時間が記されていないが、これを仮に夜が明ける午前七時頃と仮定した場合、八日町に三木勢を迎え撃つまで、八キロメートル弱の距離を、約四時間もかけて移動したことになる。徒歩の平均速度は約五キロメートルであるから、緊急事態に接して慌てて退いたとはとてもいえない速度だ。或いは撤退に際して小島城から小島勢が打って出てきたことにより困難な撤退戦を強いられ、進まなかったとも考えられるが、それでは「不及戦、荒木地へ引退」の意味が通らない。
そこで考えられるのが、「取合」という語の解釈である。これも戦いを意味する語であるが、「奪い合う」というニュアンスがより強い語である。この「取合」を「奪い合い」と解釈すれば、
江馬方は小島城下に押し寄せ、城の施設を奪い合ったがいくさには及ばなかった
と読める。
「取合(攻城戦)」と「戦(野戦)」を明確に区分した解釈である。
この「取合」の過程で江馬方に多数の犠牲者が出たのであろう。そうでなければ小島城が所在する杉崎から八日町までの、異常なまでの遅速行軍の説明がつかないのである。
またこの「取合」を「和睦」とする解釈もあるが、「後書」の簡素な記事からは、自ら戦いを仕掛けたはずの輝盛が小島勢との和睦に応じた理由が全く分からない。それに、もし仮に和睦が成立した場合であっても、江馬勢が杉崎から八日町までの距離を遅々として進まなかった理由についての説明もできない。
やはり江馬勢は小島城に攻め寄せ、城の構造物を奪い合う戦いの過程で多数の負傷者を出し、ために撤退が進まず、八日町で捕捉され殲滅されたと考えるべきであろう。
輝盛の死についても「後書」の記事は簡潔を極めている。「酉剋ニ輝盛討死」とあるだけで、軍記物に見受けられるような潤色は一切排除されている。本作では軍記物の記述に従い、輝盛は鉄炮で撃ち落とされたと記したが、もとよりそれを裏付ける史料は存在しないのである。
してがって
「武田とのつながりの強かった江馬家は旧来の騎馬戦術にこだわり鉄炮の普及が後れていた。その点三木家は信長とのつながりが強く、鉄炮をより多く保有していたので、その差が勝敗を分けた」
とするのは、史料的裏付けを欠いた単なる思い込みに過ぎない。
おそらく武田家が、長篠戦役で信長の鉄炮戦術により壊滅的打撃を受けたことを根拠として、このような誤解が発生したのであろう。実際の輝盛は武田家よりも上杉家とのつながりの方が明らかに強かったし、自綱が信長に傾斜していたのは事実だったとしても、織田家から三木家に鉄炮が贈与された確実な記録は存在しないのである。
輝盛の死因が何であれ、彼がこの合戦で戦死したことに間違いなく、人々はその死を大いに惜しんだと伝わる。情誼に厚い人柄が慕われていたのだろう。
しかし輝盛の死を惜しんだ人の大半は、その後の飛騨に吹き荒れた自綱による粛清の嵐を恐れ、昔の微温的な飛騨を懐かしんで、その記憶と共に輝盛の死を惜しんだものであった。
輝盛亡き後の自綱は、確かに常軌を逸していた。
三木家にとって目の上のたんこぶであり続けた輝盛が討死したことで、自綱はさながらたがが外れたように、無軌道な殺人に狂奔することになるのである。
昏く、陰惨な話が続く。いましばらくご辛抱願いたい。




