木曾侵攻(三)
一方そのころ、三佛寺城に入った直頼は、末弟新九郎と共に応援要請に応じて参集した国内諸衆を出迎えていた。先遣新左衛門尉直弘と新介直綱が万が一敗れ去るようなことがあれば、これら諸衆を率いて今度は直頼直々に木曾の逆襲に備えなければならないのである。
「次郎殿、よくぞ越された」
直頼は廣瀬次郎の姿を見るなり駆け寄って、直にその手を取りながら言った。
「御父上の御加減は如何でござろう」
廣瀬次郎の父左近将監は病床にあって今回の戦役には参陣していかなかった。参陣を断るための常套文句として病を騙る者は古今例を欠かないが、直頼は廣瀬左近将監の病を仮病とは疑わなかった。仮病であればわざわざ嫡子に兵を付して派遣してくるはずがないからである。
嫡男次郎を派遣してきたことが、廣瀬左近将監の真心の、何よりの証拠だと直頼には思われた。体調が優れないというのは本当のことなのであろう。
父左近将監を慮った直頼の言葉に対して、次郎はやや肩を落としながら
「或いは長くないかも知れませぬ」
とこたえた。
直頼は
「滅多なことはいえぬが、もし万一のことあらばそれがし、なにを置いても次郎殿にお味方致す所存でござる。ご安心召されよ」
と、次郎の手に自らの手を重ね、しっかりと握った。
次に直頼が声を掛けたのは永正江馬の乱以来の盟友江馬左馬助時経であった。
「高原より遠路はるばるよくぞお越し下された」
直頼はひととおりではない喜びようを示したが、それも当然の話で、というのは両者の間には、時経の娘月姫を、直頼嫡男四郎次郎に嫁がせる縁談が成立していたからである。ただ縁談とはいっても月姫は四歳、四郎次郎は八歳と、双方未だ幼年であって、親同士の口約束に過ぎない段階ではあった。それでも今回、時経が国中に下向してきたついでに、両家のつながりを深める宴席が設けられる予定であった。
無論、宴を執行するにも木曾を打ち払うことが大前提である。
そのことを知る江馬左馬助時経の陣容は、必勝を期して家中衆のほとんどを引率しての参陣である。時経は直頼の手をしっかり握り返しながら
「それがしが馳せ参じたからには千騎の援軍を得たと同様。心強く思し召せ」
とこたえる。
更に見えるのは牛丸与十郎の姿である。如何に直頼が飛騨に覇を唱える大身とは言い条、国司嫡流である小島時秀をはじめ姉小路三家の当主に参陣を要求するわけにもいかず、代わって三家代表として向家より派遣されてきたのが同氏重臣牛丸与十郎であった。直頼はその牛丸与十郎に対しても
「飛騨国司家の後詰を得て、我が勢の意気ますます軒昂。此度戦役を終えて帰城なされたら、直頼が深く謝しておったと宗煕公にお伝え下さい」
と慇懃な物言いである。
しかし国司家重臣としての威勢を鼻にかける牛丸与十郎は三佛寺城に参集したこれら飛騨国内の軍勢一千余騎の実質的統率者が旧守護京極家の又被官に過ぎなかった三木直頼であることが気に入らない。
直頼が差し伸べた手を握り返すことも、直頼に一瞥もくれることすらもなくただひと言
「出迎えご苦労である」
と陳べたきり、小癪にも自らがこの挙国一致の軍勢を統率する御大将であるかの如く振る舞って、ずけずけと三佛寺城本主殿へと身を乗り入れてしまう始末であった。




