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飛州三木家興亡録  作者: pip-erekiban
第三章 三木自綱の野望
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八日町の戦い(八)

「よろしいか殿。それがしは確かに定石どおりに攻めよと申し上げました。そうすることなくいたずらこわめを繰り返したのは殿の過失。この退勢を覆すは容易ではござらん。思うにこれより江馬家は塗炭の苦しみを味わうことでしょう。なればこそ後世に家名を遺さねばなりません。幸い我が手勢の多くは健在。殿軍しんがりにも堪えましょう。しかしそれも一時のもので、首尾良く敵を弾き返すというわけには参りますまい。我等が敵を食い止めている間に、く落ち延びられよ。再起を図られるが良い」

「しかしわしには……」

 輝盛が何事か続けようとした。わしには江馬家当主としての責任がある、とでも続けようとしたものか。

 富信はその輝盛に向かって大喝した。

「まだ分かりませんか。我等はいま、存亡の危機に立っているのでございます。当主の意地、武士の面目など命あっての物種と思し召せ。もとよりそれがしとて無駄に死ぬつもりはござらぬ。この身ひとつとなろうとも御家のために生き延びる所存。家老たるそれがしがこの覚悟であるのに、当主が徒に死に急ぐ端武者同然の心懸けでなんとなさる!」

 輝盛はもはや抗弁できなかった。

 こうなっては背後の守りをこの老臣に任せ、自分自身は撤退する以外にない。輝盛は名残惜しそうにその命令を下した。


 しかしなんとも焦れったいのはその輝盛本人である。

 敗残の兵を棄て、背後を老臣に任せたまま身ひとつで高原に逃げ込むことも出来ただろうし、命を擲って殿軍を申し出た老臣がそれを望んでいることを知ってはいても、輝盛には負傷兵を見捨てて逃げるということが出来ない。

 いずれも当代随一の名将と讃えられた人はたとえ敗軍の将に身をやつしたとしても、命をながらえることを第一に考え、恥も外聞もかなぐり捨てて一目散に逃げ延びようとするものである。たとえば織田信長は、かの有名な金ヶ崎の退き口において殿軍を羽柴秀吉に任せ、文字どおり身ひとつで逃げ延びているし、家康だって三方ヶ原の戦いで武田勢に追い回されながらもなんとか浜松城に逃げ込んでいる。どちらも麾下将兵の犠牲を一顧だにしない見事な逃げっぷりであった。

 後年信長も家康も、自分を追い詰めた敵に雪辱を果たしているのだから、命あっての物種というのは本当のことであった。その点負傷兵を見捨てることなく遅々として進まない輝盛は、情誼に厚い将とは言い得ても、そういった将器に欠けていたといわざるを得ない。


 一方殿軍を引き受けた富信一党であったが、如何に健在の者が多い手勢とはいっても絶対数が足りない。その数ほんの二、三十といったところで、これでは後詰の三木廣瀬牛丸はもちろんのこと、城から打って出ようという小島勢にも及ばない。しかし老臣の懸命の防戦は、追撃の城方を数度押し返すの激闘を繰り広げた。


 河上中務丞富信には意地があった。累代江馬家に仕えてきた家老の家柄という意地である。

 いまより三十八年前の天文十三年(一五四四)、富信は当時仕えていた江馬常陸守時貞を裏切る形で江馬時経、時盛父子に与した経緯があった。これなど父重富の策に従ったものであり、時貞に仕えてきた身には不本意で耐えがたい選択であったが、それでも敵方に転じたのは、敢えてそうすることによって時貞の血統を残し、輝盛の手に惣領の権を取り戻さんがためではなかったか。

 その意地にかけても、富信は輝盛をこの場から逃さねばならなかった。


 その河上富信と追っ手との激闘は数度に及んだ。 

 顧みれば身辺の侍五指に及ばぬ。

「殿はいま、いずこにおわすか」

 問うてはみたが、皆これまで小島勢と激闘を繰り広げていた者ばかりであって、逃げ散った輝盛本隊がどこにあるか知る由もない。

 富信は言った。

「殿の存否が明らかでないことだけが心残りであるが、こうまで討ち減らされてはこれ以上の防戦は不可能といわざるを得ない。我が手勢はここにて解散する。おのおの思うところへ落ち延び、殿が健在と信じて再起を図れ。

 もし亡いと分かれば……」

 富信は一旦言葉を句切った。主君輝盛が死んだ後のことを考えなければならない苦衷のために言葉が途切れたものか。

 一瞬の沈黙ののち、富信が続けた。

「もし殿が亡いと分かれば、江馬の血筋に連なる人物を草の根分けてでも捜し当て、御家を再興させるのだ。これぞ累年蒙った主家の恩に報いる心懸けぞ」

 そういうと生き残った河上富信とその手勢は、武具を脱ぎ捨て身ひとつで戦域を離脱し、後日を期してめいめい思うところへ落ち延びていったのであった。

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