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飛州三木家興亡録  作者: pip-erekiban
第三章 三木自綱の野望
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八日町の戦い(六)

 杉崎の小島城望楼から、小島時光は荒城川北岸を見渡していた。

 西の梨子打なしうち山麓と東の安国寺の間隙を縫って、多数の松明たいまつが南下してくる様子が手に取るように見える。その数約二〇〇といったところか。夥しい数とはお世辞にも言えないが、高原の侍を総動員したもののように、時光には思われた。

 輝盛の本気度が自ずと窺われようというものである。


 八日町の戦いの際に両軍が動員した兵力については、「飛騨略記」によると


松倉ノ城主三木大和守自綱、無道ヲ誅セン為ニ(中略)、同十年(※天正十年、一五八二、筆者註)十月下旬、三千餘騎ヲ引率シテ(中略)、江馬輝盛遮テ之ヲ防カント、自モ三千餘騎ニテ(後略)


 とあって、三木方、江馬方共に三千を数えたという説を掲載しており、「飛騨国治乱記」では


(前略)斯テ休庵(※自綱のこと。筆者註)兵粮馬草夥ク用意シテ日頃疎遠ノ者迄軽薄ヲ以テ招寄セ葉武者以下迄馳走シキラヒ軍勢点検スルニ雑兵凡貳千騎ニ成ケリ(中略)、斯テ江間常陸ノ助輝盛(※江馬常陸守輝盛、筆者註)ハ(中略)侍三百餘騎越中落ノ兵甲州加勢旁合凡三千餘騎也


 と記し、三木方を葉武者雑兵込みで二千余騎、江馬方を侍三百余騎、その他越中、甲州加勢合計して三千余騎としている。

 因みに「治乱記」では自綱よりつなを「休庵」と称しているが、これは自綱の法号「休安」の当て字であり、しかも本戦が行われた天正十年時点では自綱は依然薙髪してはいない。

 他にも「飛騨国治乱記」はこの合戦を天正八年(一五八〇)の出来事と比定しており、しかも輝盛の挙兵に武田信玄が関与している旨明記しているが、無論輝盛の挙兵は信玄没後随分経ってからの話だったし、武田家滅亡後のことなので信玄どころか武田家の関与もあり得ない話である。

 そもそも軍記物語である「治乱記」や「略記」に、史実に基づいた正確性を求める方が間違いで、野暮だというご意見もあろうかと思うが、三木家と江馬家という飛騨を代表する二大勢力が激突した戦いに箔を付けるためか、両軍の動員兵力については軍記物は過大に記載している傾向があって、到底信じられる数字ではない。


 太閤検地で算出された飛騨の総石高は三万八七六四石とされている。

 文禄慶長の役では、太閤検地によって算出された石高に基づいて軍役が課され、その割合は一万石あたり二五〇人だったから、これに準拠すれば飛騨国全体での動員兵力は一千名にわずかに届かない計算になる。

 大永八年(一五二八)に三木みつぎ右兵衛尉うひょうえのじょう直頼なおよりが召集し、三佛寺城に結集した国内の諸侍を約一千名としたのは、このあたりが妥当な数字と考えられたためである。

 一方、天正十五年(一五八七)の「北条家人数覚書」を分析すると、どうやらこの時期の小田原北条家の支配地域では一万石につき七〇〇名の軍役が賦課されていたようである。この割合を飛騨に当てはめてみると、約二七〇〇名の動員が可能だったという話になる。前者の三倍違い人数に膨れ上がるが、それでも両軍合算して六〇〇〇にも及ぶ軍記物の数字には遠く及ばない。

 実際の戦いでは、軍記物に記された数字の十分の一か、多くても両軍合算して千名に届かない人数で競り合ったと考えられるのである。

 そうやって書くと、八日町の戦いを矮小化しているなどとお叱りを受けるかもしれないが、一方で天下分け目という意味での「飛騨の関ヶ原」という評は必ずしも的外れなものではない。

 この当時、ほぼ一強の独走状態だった三木家(無論飛騨国内に限った話である)に、戦いを挑む意思と能力があったのはひとり高原の江馬家だけだったことは確実で、この戦いに勝利した側が飛騨国内の覇者に登ることは確実であった。だからこそ輝盛は、信長が死んで間がなく、しかも冬の訪れが近いこの時期を選んで挙兵に及んだのである。

 そして江馬輝盛は、事前の降伏勧告に対して旗幟を鮮明にしなかった杉崎の小島城に押し寄せたのである。


 ころは丑の刻(午前一時ころから午前三時ころまでの間)であった。

 小島城攻めは江馬輝盛にとって次善の策であった。

 縷々繰り返してきたとおり、輝盛率いる高原勢は決して人数に恵まれていたわけではなかった。こと兵力に関していえば、江馬家の勢いに恐れをなして麾下に参じる人々をアテにしていたというのが実情であった。その人数寡少の兵力でもって城攻めを敢行しなければならなくなったために、輝盛は奇襲効果を見込んでこのような夜半に攻撃を仕掛けたのであった。

 そして輝盛にとって更に不運だったのは、戦前は江馬家からの降伏勧告に接して態度を決めかねていた小島時光が、城に敵勢を受けたというその一事を以て主従共々瞬時に戦意を固めたところにあった。輝盛の攻勢が、却って小島家を意思統一に導いたのだから皮肉なものだ。

 輝盛は寡兵で堅城に攻め寄せなければならなくなった。

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