八日町の戦い(三)
自綱にとって本能寺の変の原因がどうだとか、信長の敵を討ったのが誰であるといった話は関係のないものであった。
いまや自綱にとっての焦眉の課題は、折に触れて聞こえてくる亡き宣綱の声であった。
甲州征伐の折、金森長近の軍勢を国内に迎えたころには、床に就いたときくらいにしか聞こえなかった宣綱の声が、いまは昼の日中にも聞こえるようになっていたのである。
声は板の間の目地や壁の隙間、或いは屋根裏からも聞こえてきた。その声は飛騨の人々の苦しみを代弁するかのように、自綱の失政を二六時中詰り続けた。
信長が本能寺に斃れたことで自綱は後ろ盾を失い、そのこともまた自綱の情緒を不安定にさせた。
舟坂又左衛門などの供廻りは、ことあるごとに自綱から
「宣綱の声が聞こえるであろう。宣綱が身を殺そうとしている」
と言われて、困惑を隠せなかった。供廻りの者は、自綱が心神に異常を来していることに薄々勘付いていながら、同じように聞き耳を立てて同調した。
「そんな声は聞こえません」
などと下手に言って成敗されることを恐れたのである。
しかし自綱は安易に同調した供廻りに対して
「ほら、聞こえるであろう」
などと同調を求めておきながら、
「はい聞こえます」
と答えた者に対しては
「適当なことを申すでない! そち如きに身どもの苦しみが分かってたまるか」
と激昂するから始末に負えない。周囲にとってこの症状は甚だ迷惑であった。
自綱と家臣団の意思疎通は次第に困難なものとなっていった。
宣綱廃嫡後、嫡男となった秀綱は十八に達してはいたが、いますぐ家督を継承したとしても後見を要する立場であった。しかし後見人とはいっても一門親類の有力者を既に二名も殺害したあととあっては適任者がいない。自綱を押し籠めても後見人のいない秀綱が滞りなく政務を執行できるとも思われぬ。三木家としては正常な判断力を喪失していると知りながら、それでもなお自綱を必要としたのである。
そんなふうであるから、自綱が口に出したからといって、その命令を実行に移すことを人々は躊躇した。
いつしか自綱の症状は家中衆の間で
「狐憑きではないか」
と言われるようになった。
このようであるから、たとえ自綱が
「高原を攻めよ」
と口走ったからといって、曾てその威命が行き届いていたころのようにはいかなかった。
「御本所(自綱)が斯く仰せであったが如何いたそう」
高原攻めを唐突に命じられた供廻りは困惑交じりの談合に及んだが結論が出ない。自然と自綱の言葉は、秀綱や鍋山に在城する鍋山豊後守顯綱に伝えられた。いまや心神を喪失しつつあった自綱に代わって、顯綱と秀綱の両名が三木家の意思を決定する者になりつつあったのである。
しかし如何に高等教育を受けてきた者とはいえ、これまで国政に携わってこなかった秀綱が、高原攻めという重大事を決定できるわけがなかった。決定は顯綱ひとりに委ねられることになった。
顯綱の導き出した答えは無論
「時宜にあらず」
というものであった。
これは家中衆にとって順当な決定と思われた。
前述したとおり自綱が後ろ盾と頼った織田信長は既にこの世の人ではなく、織田方の北陸方面軍がいままでのような攻勢を継続できるかどうかは全くの未知数であった。一方で退潮を覆すことは出来ないだろうと思われた越中の上杉方は急速に息を吹き返していた。そうなれば曾て謙信がそうしたように、上杉は必ずや飛騨に影響力を及ぼそうとしてくることであろう。高原はその上杉にとって飛騨国中への通路に位置しており、これへ攻撃を加えれば、上杉は軍事的脅威と解釈するに違いなかった。上杉との今後の関係を考慮すれば高原は現状のまま緩衝地帯として温存しておく方がはるかに現実的であり、安易に手出しできる場所では断じてなかった。三木家の人々は皆、そのことに薄々勘付いていた。
斯くして狐憑きが疑われる自綱の口走った高原攻めは「なかったこと」にされた。
「高原攻めはどうなっておるか」
あるとき唐突に自綱から問われた舟坂又左衛門は
「何事も順調に進んでございます。心配ご無用」
と答えた。
木石かなにかに語りかけるような又左衛門の語調に、主君への敬慕の念は籠もっていなかった。




