八日町の戦い(二)
そもそも上司個人や組織そのものに対する怨恨や不満など、組織に属している人間であれば大なり小なり抱えているものである。
特にこの時代は
「立身出世こそ至上の喜び」
とされたマッチョ思想の時代であった。
しかし実際には知行地の加増は負担すべき軍役の増大を伴うものだったし、金銭の下賜もまた同じであった。
感状や栄典の授与は必ずしも軍役負担の増大と直結しないが、
「褒美を与えたのだから今後も軍役に励め」
という意味合いから考えると
「家臣は主君のために軍役に服し、主君はその労に報いて褒美を与える。家臣はその褒美に報いるべく更なる軍役に従事する」
という君臣の双務関係を前提にしている点において前二者と本質的に変わりがない。
要するに主君の側が家臣の労に報いる方法は、双務関係の継続を前提にした方法以外に存在しなかったのである。
一応立身出世とは異なる価値観を求める声もあるにはあったし、それを追求する方法も準備されてはいた。出家や家督譲渡がそれである。
しかし出家或いは家督の譲渡で断ち切ることが出来るのは飽くまでも個人間で締結された双務関係だけであって、家同士の関係となるとそうはいかなかった。
前章に掲載した上杉謙信発村上源五宛文書を思い出してほしい(第二章「三木良頼の謀略」「謙信の野望(二)参照」)。
この手紙は冒頭
永々順国御辛身察入候
と書き出されている。「国に従う辛い身をお察しします」と記されているのである。
もちろん「皆さんお疲れさまです」といった程度の社交辞令であるが、立身出世こそ至上の喜びと無邪気に信じておればまず出てこない言葉であろう。
こういった言葉を、褒美を与える側に立っているはずの謙信が書き出し部分で用いている意味は極めて重大である。家臣の側に多様なニーズがあるということを把握してはいても、主君の側はそれに応じる術を、双務関係の継続を前提とした手段(たとえば加増や黄金下賜、感状や栄典の授与)以外では持ち合わせていないことを、はしなくも示しているように思われてならない。
滝川一益は甲州征伐を終えた後、信長から褒美としてなにを求めるか訊ねられたそうである。信長としては当然、今後にわたる双務関係の継続を前提とした提示だったことだろう。
しかしここで滝川一益が求めたのは信長所蔵の茶器「珠光小茄子」であった。
信長は笑ってはぐらかしたという。
これは従来、
「戦国武将はなにをおいても知行を欲するものである」
という思い込みの元、
「滝川一益は領国拡大よりも茶器を選んだ。つまり信長は国の価値に優る茶器を所有していた」
という意味合いで語られてきた逸話である。
これを茶器の価値にのみ着目して解釈するからなんだかよく分からない話になってしまうのであって、君臣の双務関係という観点から見れば、滝川一益の要求は絶妙である。茶器の下賜は軍役の増大を意味しないからである。
この逸話は圧倒的に、滝川一益が君臣の双務関係から離脱することを望んだ話と解釈すべきである。滝川一益は甲州征伐をキャリアの区切りと考えて、隠遁つまり信長との双務関係の解消を望んだものであろう。
領国よりも茶器を望むことによって
「知行はもういいから引退させてほしい」
と申し出たわけである。
しかし滝川一益に上州を与え関東取次に任じていた信長は、今後にわたる滝川一益との双務関係の継続を望んだ。
信長としては
「そんなつもりで訊ねたのではない」
といったところだっただろう。笑って誤魔化したのはそのためだ。
滝川一益のエピソードからも分かるとおり、家臣の側が求めるのは必ずしも双務関係の継続を前提とした褒美だけではなかった。分母が大きい分、家臣団のニーズは多岐にわたっていたのである。しかし一方の主君の側はといえば、十人十色の要望に応える術は限定的であった。
その意味からも、謀叛の前提となる光秀の不平不満など実際のところ数え上げれば切りがなかっただろう。謀叛の原因について諸説飛び交うのはこのためだ。きっと全て正解なのだろう。
「光秀は下賤の身分から引き立ててくれた信長感謝していた。不満など抱いていなかった」
などとよく言われるが、この時代の人間が、後世に残るような形で本音を言うわけがない。信長に対する、建前としての感謝の言葉しか残されていないのは当たり前なのである。
そして不満があろうがなかろうが、結局は信長の側に
「光秀が大軍を引き連れて洛中近くに所在していたにもかかわらず、信長信忠父子が少数の兵で同時に在京していた」
という過失がない限り、光秀は謀叛を起こすことなどそもそも出来はしなかったのである。身も蓋もない言い方になるかも知れないが、つまるところ謀叛の原因は、光秀がどうのこうのというよりも、警戒を怠った信長信忠父子の慢心にあったとしか言いようがないのである。
宿敵武田を滅ぼした安堵感の為せる業であろうか。数々の修羅場をくぐり抜けてきた信長の「らしくない」最期であった。
因みに突発説とでもいうべきこの話も、特に目新しい説ではないことは、博識の読者諸氏にいまさら多言を要しまい。




