八日町の戦い(一)
俗に「飛騨の関ヶ原」と呼ばれ、飛騨国内における三木一強を決定づけたといわれる戦いが「八日町の戦い」である。
各種軍記物に伝わる合戦の規模や、天下分け目の関ヶ原に比定される位置づけについて一切の疑問なしとできるものでもないが、この決戦が生起する前提条件に本能寺の変があったことだけは間違いない。
ところでその本能寺の変の原因については、既に発生当初から諸説唱えられており、今日に至るまで一致を見ていない。
主要なところを挙げると信長に対する個人的怨恨説。朝廷、幕府、家康、秀吉等による黒幕説。秀吉との出世競争説。天下取りを望んだ野望説。そして最近では四国征伐説等である。
特に四国征伐説は近年関係史料の研究が進んだことで俄に注目され、変の要因を四国征伐一本に求める見解が大勢を占めているといっても過言ではない。所謂「石谷家文書」の話である。
「元親記」によると、織田信長は敵対していた三好家に対抗する必要上、四国で三好家と競合する土佐の長宗我部元親と天正三年(一五七五)ころから友好関係を構築していたようである。信長はこの過程で元親に対し
「四国切り取り次第」
という白紙委任状を朱印状という形で発行したらしい。
しかし三好康長が信長に降伏したことにより、少なくとも織田家の脅威と見做されなくなったことから、信長は先の白紙委任状を撤回する。
これで元親が納得するはずがない。
元親はその後も四国での勢力伸長を指向し続けた。三好康長の本拠地である阿波に侵入したのである。
元親は
「兵を引くように」
という石谷頼辰の懇請を拒否する意向を示したという。
石谷頼辰は元幕府奉公衆であり、このころは明智光秀の家臣として稼働していた人物であった。信長と元親の間を周旋していた責任者が、石谷頼辰の上司、即ち明智光秀だったというわけである。
両者の間を取り持とうという光秀の努力にもかかわらず、信長は天正十年(一五八二)二月には四国征伐を決意しており、甲州征伐を終えた同年五月七日には三男信孝に四国征伐を指示したという。この結果、取次としての面目を潰された明智光秀が不満を抱いて本能寺に信長を討った、というのが四国征伐説の概要である。
この説自体は目新しいものではなく、前掲の「元親記」には既にそのような内容の記述が見られる。四国説が俄に力を得たのは、平成二十六年(二〇一四)に「石谷家文書」の研究が進んだことにより、「元親記」の記述が裏付けられて以降の話である。
では、明智光秀が信長による四国征伐に不満を抱いたとして、たとえばそのころ信長信忠がそれぞれの本拠地である安土、岐阜に在城していた場合はどうだっただろうか。それでも光秀は四国征伐に不満を抱いて安土や岐阜に攻め寄せたであろうか。
そのころ信忠が岐阜に在城しており、信長だけが京都に滞在していたとしたら、明智光秀は軍を二分してでも謀叛を起こしていたであろうか。その逆で、信長が安土に在城しており、信忠だけが在京していた場合はどうか。或いはまた、信長信忠父子が光秀の軍勢に匹敵する軍勢と共に入京していたとしたら、それでも光秀は信長を討とうとしただろうか。
私には、どれもあり得ない話のように思われる。
光秀がなにを原因として変心したかは知る由もないが、個人的怨恨説であれ黒幕説であれ、四国征伐説のような「武家の面目説」であれ、成功の見込みがなければ謀叛など起こすに起こせなかっただろう。
そういった意味合いからも、私は本能寺の変の原因については、
「信長信忠父子が少数の兵で同時に在京していたこと。そのころ光秀は大軍と共に洛中付近に所在していたこと」
にあると考えている。
この要素を欠いては本能寺の変は絶対に起こりえなかったからである。




