武田滅亡(六)
自綱の睡眠はすっかり浅くなっていた。迫る越後の脅威にうなされる日々が続いたことで、飛騨が上杉の呪縛から逃れたいまも、自綱は曾てのようにゆっくり眠ることが出来なくなっていた。
その自綱の眠りを妨げる声が今夜も聞こえる。
「父上、父上」
と呼ぶ声である。
自綱は身を起こして
「秀綱か」
と問うた。
嫡男宣綱に切腹を命じて以降、これほどしっかりした声で自らを呼ぶ者は元服していた秀綱以外になかった。
「秀綱? お戯れを。私でございます。宣綱でございます」
「なんと! 宣綱とな!」
自綱は思わぬ名を聞いて絶句した。
「そのようなはずがない。宣綱は、謀叛を企てたがゆえに三年も前に切腹を命じて処断した。いまやこの世にいない。貴様何者だ」
問うてはみたが、あたりは真っ暗で月明かりさえない漆黒の闇である。相手の姿は未だ見えぬ。
「ふははははは」
声なき声は自綱を嘲った。
「いかさま、この世はこの世にあらず。宣綱がこの世に来たのではございませぬ。父上が地獄に片足を突っ込んでいるのでございます。ふは、ふは、ふははははは」
「なにを馬鹿な!」
自綱は身を起こして枕頭の太刀を取ろうとするが、身体が痺れて思うように動かない。さながら首から下が泥の中に埋もれているかのようであった。
「馬鹿を仰せなのは父上の方でございます。いま、この世の有り様を地獄から見渡しまするに、父上は織田家より課される課役に苦しんでおられる御様子。これなるを危惧し、信長公に対して課役の軽減を申し出られよと進言したのは誰であったか、よもやお忘れの父上ではございますまい」
「黙れ!」
「黙りませぬ。みを重んじる信長公こそ拠るべき大樹などと仰せになった御自身のお言葉こそ間違いであった、馬鹿は自分であったとお認めになるまでは夜毎枕元に立ちましょうぞ。さあ、自らの非をお認めになるのです。馬鹿は自分であったと」
宣綱の声は次第に自綱に迫って聞こえてきた。それと共に、先ほどまで漆黒だった自綱の視界のど真ん中に、真っ青な宣綱の顔が浮き上がって見える。それは介錯の後に対面した宣綱の顔であった。
真っ白で生気を失い、曾ては英気に満ちあふれた瞳をどんよりと曇らせた宣綱の首。
無論自綱とて人の親。手塩にかけて育てた我が子に一切の思い入れなしと割り切れるものでもなかった。飛騨国司としての立場がなければ我が子に切腹を命じる道理など、あろうはずもない。
もう一度宣綱に会いたい。会ってとっくり話がしたい。
その思いを秘かに抱いていたが、いま目の前にある宣綱の首は、自綱が会って話をしたいと思った宣綱のそれではなく、自綱にとって記憶から消し去りたい嫡男の最期の姿であった。
地獄に片足を突っ込んでいるという話、どうやら単なる世迷い言でもないらしい。
地獄を自覚した自綱に、宣綱の首が畳み掛ける。
「このまま父上を地獄の底へとお連れいたしましょうぞ」
「止めろ! 寄るな!」
自綱は懸命に叫んだ。
身体を思うように動かせない自綱にとって、声によって拒否の意向を明示することだけが、残された抵抗の手段であった。しかしその声も次第に明瞭さを失い、くぐもったものに変わっていく。
いまや自綱の口から発せられるのは、苦しそうな呻き声のみであった。見れば宣綱の首が自綱の胸元にのしかかっている。巌の如く重い。
宣綱の首に押し潰され、もはや声を発するどころか呼吸さえもままならない自綱。
このまま死んでしまうのか……。
「ふわ~ッ!」
夜着を跳ね飛ばして自綱が飛び起きた。
夢であった。
寝起きだというのに激しく胸を打つ心臓。悪夢のためであった。金森勢の進駐以来、このようなことが続いている。
(殺られる前に殺ってしまわねばならない)
自綱はそう思った。
自綱には殺られる自覚があった。
金森勢から課される課役に苦しんでいるのは自分だけではないのだ。否、自分の如きは金森長近から命じられるまま諸役を人々に伝達しているだけなのであって、実際にそれに服しているわけではない。その自分ですら伝達するに逡巡するほどの苦役を、人々は現実に強いられているのである。怨念の矛先は真っ先に自分自身に向けられるであろう。
自綱は何よりもそのことを恐れた。
(殺られる前に殺ってしまわねばならない)
憑かれたように心の中で繰り返す自綱。まるでそうすることだけが自分の身を守るための、たった一つの方法だと固く信じているかのようであった。




