武田滅亡(五)
もし父良頼がこの日まで存えておれば、どれだけ喜んだことであろう。
自綱は松倉城本主殿に金森長近、可重父子を迎えてそのような感慨を抱いた。
なお父子とはいうものの、可重の実父は美濃垂井城主長屋左近将監であり、このころ信長近習として見習いの立場にあった長近実子忠二郎長則に代わって長近を支える立場にあった。
これまで散々飛騨三木家を脅かしてきた甲斐武田家は滅亡のときを迎えようとしていた。他国に向けて連年兵を繰り出してきた武田家が、その領国の根幹である信濃に遂に兵を受けたのであるから、その退潮は誰の目にも明らかであった。しかも他国の兵を受け容れたのが、勝頼とは義兄弟の間柄に当たる木曾義昌だったから、武田が受けた衝撃は並大抵ではなかった。
織田信長は勝利を確信したのであろう。
さっそく木曾谷に援兵を派遣すると共に、麾下将兵に命じて武田領国への総攻撃を命令した。
甲州征伐の主力は美濃信濃国境の妻籠口から下伊那に侵攻する濃尾の諸兵であり、織田信忠を大将とする。そのほか駿河口から攻め入るのは徳川家康、同じく駿東から攻め入る北条氏政といった諸勢力に交じり、越前大野郡を発した信長麾下金森長近一党が飛騨口から信濃に攻め入る算段であった。
三木自綱は、これより信濃に入ろうという金森長近一党の路次警固を命じられて、このたび金森の軍勢を松倉城に迎え入れたものであった。
単に迎え入れるだけとはいうものの、飛騨国内に見ない三千もの大軍に兵糧や宿を提供しなければならないのだからその負担は馬鹿にならないものであった。
先ほど、武田を裏切った木曾義昌の話を少し出した。木曾ついでに話をすると、いまから五十四年前の大永八年(一五二八。同年八月、享禄に改元)七月に木曾義元が飛騨に侵攻した際、三木右兵衛尉直頼が召集した国内の諸侍は一千余騎であった。
三木家は直頼以降、飛騨国司に任じられ、姉小路古川の名跡を得はしたが、このときに直頼が集めた以上の兵を一カ所に召集出来たためしが実はない。過去に集めた兵の数という話だけでいえば、良頼も自綱も、直頼を超えたことがないのである。
今回松倉城周辺に集った越前大野の兵は、その直頼が集めたことがある一千余騎に三倍する人数であった。それだけの人々に食糧や宿を提供しなければならないのだから、負担にならないはずがない。
自綱は武田家滅亡の喜びに打ち震えながら、金森長近に対し援助を惜しまぬ旨を申し出ると、これまで多数の戦役を踏んで経験豊富な金森長近は容赦なく
「これまでの路次警固ご苦労でした。これより先、木曾街道を経て木曾に合力する予定です。道案内をお願いします」
「越前大野より遠国、道も嶮岨ゆえに兵糧の運搬に難儀しております。引き続いて兵糧の運搬と提供を願います。武器弾薬も同様にお頼み申します」
「厳冬だったがゆえに未だ雪も解けきっておりませぬ。諸兵が凍死したり凍傷を負わぬよう、宿を間借りしたい」
と、その要求は止まるところを知らない。
自綱はこの年、生年四十三に達して壮年であったが、金森五郎八長近はといえば大永四年(一五二四)生まれの五十九歳である。亡くなった父良頼とさほど年の頃が変わらぬ。
しかも信長の命を受けて大軍を率いる立場でもあり、自綱如きが
「みは姉小路宰相であるぞ。なにゆえ飛騨国司家がそのような負担を強いられねばならんのじゃ」
などと言えるはずもない。
自綱は自分の背後に、負担を恨む飛騨国内の人々の視線を感じながら、長近が求める諸役に服さなければならなかった。
そしてこういった課役こそ、先年自らが切腹を命じた嫡男宣綱が恐れて回避しようとした負担だったことは皮肉というよりほかない。




