武田滅亡(四)
こういった信長のやり方は今回が初めてではない。
将軍義昭を奉じて上洛を果たした直後、信長は全国の大名に対して上洛を命じている。
これなど義昭政権に服属するかしないかを試すリトマス試験紙だったのであり、上洛を拒否した朝倉義景は、新将軍義昭に刃向かう勢力の代表として討伐対象にされた事情は前述のとおりだ。
武田家の事例もそれに似ている。信長は武田勝頼を生け贄よろしく討ち滅ぼすことによって関東征服を強く印象づけ、将軍宣下を得ようと企てたのである。
信長は万事このようなやり方を好んだようだ。
当時、重囲に陥っていた高天神城からは、武田勝頼の元に後詰を求める手紙が頻々ともたらされていたという。高天神城に籠もる将兵は武田の分国から集められた人々であり、籠城兵の親族は武田の分国中いたるところに住んでいた。こういった人々もまた、一族を代表して苦しい籠城戦を戦っている兵の救出を望んでいた。
勝頼が高天神城を見捨てるということは、こういった分国中の人々から寄せられた信義を踏みにじるのと同じ行為であった。
軍役衆は、いざ危機に陥ったならば、主君が後詰を率いて救出してくれると信じるからこそ苦しい軍役に従事するのであって、主君の側が後詰の義務を怠れば見限られても仕方がないというのがこの時代の不文律であった。
そして織田信長は、武田勝頼が高天神城を見捨てたという構図を作り出し、広く世に喧伝することによってその権威を失墜させ、一挙に討ち滅ぼそうと考えていた。勝頼の権威失墜を象徴する事件として高天神城落城を演出しようと考えたのである。
武田家は信長が将軍宣下を得るためのスケープゴートにされ、更にその武田を滅ぼすためのスケープゴートにされたのが高天神城だったというわけである。
そして高天神城は陥落した。
伝え聞くその最期はといえば、糧秣が尽きて城内に多数の餓死遺体が転がる中、それでもなんとか身体が動く者で部隊を編成し、包囲突破を目的とした城外戦を挑んだ上での玉砕であったという。籠城兵六八八名が討ち取られ、その他逃げ延びた者も山狩りに遭って多数捕縛され或いは殺されるの惨状であった。
本国からの後詰もなく、敵方に対する降伏の申し入れも黙殺された挙げ句、高天神城籠城兵は悲惨な最期を迎えたのである。
戦死者名簿の中には
「飛騨国衆江馬右馬允信盛」
の名もあった。
「たったひと言、たったひと言御下知あれば……」
時政はそう言って唇をかんだ。
江馬時政は去就を考えねばならなかった。
このまま武田勝頼に付き随って、仇敵たる徳川家康との戦いを継続するというのは少し話が違うような気がした。いまや江馬時政にとって仇敵とは、城中から頻々ともたらされる後詰要請を無視し、挙げ句の果てに父を見殺しにした武田勝頼その人であった。
それに時政にはもうひとつ、武田家に対する不満があった。
先年の御館の乱に際し、武田家は越後根知城を接収していた。これは越後国内にある対越中の最前線の城であり、その重要性に鑑みて北信葛尾城元城主村上義清とその子山浦国清に預けられたこともある要衝であった。これが、乱の過程で勝頼の弟仁科五郎盛信によって接収されたのであった。
この際、飛騨国荒城郡の江馬常陸守輝盛が武田方に通じていた。
飛騨諸侯の一として上杉に軍役を課されていた江馬輝盛が、越後根知城に進出した仁科五郎に服属を申し出た出来事は、時政にとっては祖父時盛の仇敵を武田家が取り立てたことを意味しており、とても受け容れられない出来事だった。
しかしいま時政が勝頼に対して叛旗を翻したとしても、いったいどれほどの人々がこれに呼応するか知れたものではなかった。自分が武田家に対して鬱憤をため込んでいるからといって、隣の者も同じように考えているかどうかなど、知れたものではなかった。もしその者に密議を打ち明けたとして、密告されてしまえばその時点で身の破滅である。
高天神城陥落によって権威を失墜した武田勝頼が、その後一年にわたって健在であったのはこういった下々の者の疑心暗鬼による。
時政は心の底に溜め込んだ鬱憤と、しばらく付き合わなければならないと諦めた。




