武田滅亡(三)
「それがしに後詰をお命じ下さい。預けていただく兵は寡少でも必ずや城中に駆け入って、後詰の任を果たして見せましょう」
甲斐府中躑躅ヶ崎館の主殿において、上座の人物にそう言上する若者がある。江馬時政である。その傍らには傅役として幼いころから時政に付き随ってきた和爾新右衛門尉。同じように後詰を望む強い眼差しを湛えている。
上座に座する人物は切れ長の目を時政主従から離すことがない。その白面は何事か言いたげに見えるが、思ったことを口に出来ない苦渋に満ちているように、時政には見えた。
たったひと言、それだけでよかった。
「分かった行け」
そのひと言さえ上座の人物からいただければ、江馬時政は本当に遠州まで飛んでいって、自身が率いる決死隊と共に父が籠もる高天神城に駆け入るつもりだったのである。
だが上座に座る甲斐武田家総帥勝頼の口は、時政が期待する言葉を頑なに口にしようとしなかった。
ただ
「そなたの忠節のまこと、確かに耳にした。信長家康と無二の一戦を交える日は近い。そのときが到来するまで虎豹の爪牙を鍛え、武道を怠るでないぞ」
と、通り一遍の「お褒めの言葉」を発して以降はうんともすんとも言わなくなってしまった。時政主従は物言わぬ主君の前を辞さなければならなかった。
この時期(天正九年、一五八一)、遠江に武田家が唯一確保していた高天神城は、徳川家康の重囲に陥っていた。
城の周囲に監視の付城多数を構築され、高天神城は全く孤立してしまったのである。これら付城群の初見は天正七年(一五七九)十一月であり、以来一年四ヶ月もの間、本国からの後詰も得られず苦しい籠城戦を強いられていたのが高天神城であった。在番衆は番替えもままならず籠城を強いられ疲弊し、城中に兵糧を運び込もうという動きも、付城に籠もる徳川諸兵の妨害に遭って物資は底を尽きかかっていた。
甲斐武田家は天正三年(一五七五)の長篠戦役以降、急速に衰退していったと思われがちであるが、実際のところ北条との同盟を破棄してこれと交戦状態に入り、上野国の大半を手中に収めた天正八年(一五八〇)ころに最大版図を築いている。長篠敗戦を契機として衰えていった云々は事実とはいえない。
しかし上野の大半を手中に収めたという話からも分かるとおり、信玄晩年以来指向してきた東海道方面への進出を、この時期の武田家は放棄していた。長篠敗戦は武田家の対外政策を否応なく変更させたのである。
西進策を放棄した武田勝頼はこの期に及んで不倶戴天の敵ともいえる織田信長との同盟を模索していた。高天神城に後詰して家康と敵対することは、その信長との同盟をご破算にしてしまいかねない行為であった。
如何に信長との同盟を模索していたとはいえ、全くその交渉に見通しが立たないというのであれば勝頼とて危機に陥った高天神城への後詰を怠るものではなかっただろうが、信長はそのような勝頼の心中などお見通しだったようである。
武田との同盟成立間近との惑説を流しておいて、高天神城に後詰しようという武田の動きを制したあたりは、勝頼との格の違いを見せつける仕置であった。
信長は武田勝頼を赦免する気などさらさらなかった。これは勝頼個人に対する怨恨とか、いまは亡き武田信玄に対する怒りとかそういったレベルの話ではなかった。
おそらく信長は、東国を代表する戦国大名だった甲斐武田氏を武によって滅ぼすことにより、征夷大将軍宣下を得ようと目論んでいたのではなかろうか。
令外官たる征夷大将軍位成立の由来を鑑みれば、東国最強の大名と目されていた武田勝頼の討伐を、その任官に必須の条件と理解していたようである。
当時、征夷大将軍の職は依然として足利義昭が就いていたのであり、織田信長は武田家を滅ぼすことによってその強奪を企図したものと考えられる。




