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飛州三木家興亡録  作者: pip-erekiban
第三章 三木自綱の野望
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武田滅亡(二)

「永年の宿敵である江馬家を滅ぼし、そのまま北上して裏切り者の塩屋筑前を討ち取ってくれよう」

 自綱よりつなは意気軒昂であった。

 繰り返してきたとおり、越中においては今や上杉の退潮は明らかであり、織田方がこれを平定するのは時間の問題であった。越中の平均は飛騨における勢力の配分がその時点で固定化されることを意味していた。 

 飛騨と越中は地理的に密接なつながりを有している。応永飛騨の乱(一四一一)の際、飛騨守護京極高光は越中から飛騨国内に雪崩れ込み、姉小路あねがこうじ尹綱ただつなを攻め滅ぼしている。その例からも分かるとおり、往来の道は拓かれており、両国は切っても切れない関係であった。

 越中を平定した信長が、その飛騨における騒擾を容認するわけがなかった。飛騨は信長という新しい支配者の圧倒的な武力によって勢力の固定化を強いられ、混乱に乗じて勢力を拡大するような行為は出来なくなると考えねばならなかった。

 飛騨から上杉の影響力が一掃され、織田家による越中平定が成し遂げられるまでの一瞬の隙を、自綱は衝かなければならなかった。これから先の数年が、自綱にとって勢力拡大の最後のチャンスであった。

 もし万が一いずれかの地で敗北したとしてもここに松倉城がある限り、自綱は何も心配する必要がなかった。この城に立て籠もってさえしまえば、江馬や塩屋如きが束になって攻め寄せようともこれを退けることはいと易いことであった。自綱は勝てなかったにしても絶対に負けない体勢を作り上げた上で、満を持して高原攻撃を下命した。

 

 先述の通り飛騨におけるこのような戦いは、北陸方面で攻勢に出ている信長にとって望むところではなかった。しかし一方で、そのような飛騨の小豪族同士の争いに首を突っ込んで越中における上杉方の駆逐という大目標を見失うような信長でもない。飛騨への介入は越中平定後でも十分間に合うと判断したにちがいない。信長にとって飛騨の両雄は、当面は争わせておいても何ら影響のないものとして映っていたことだろう。その証拠に、この年に行われた三木家と江馬家の争いは仲裁する者がなく、さながら泥沼の様相を呈していたことが、残された史料から読み取ることが出来るのである。

 より具体的にいうと、「岐阜県史・史料編」所収の「舟坂文書」に


去月(※六月)廿八日於高原合戦之時、頸一討捕之、忠節神妙、弥可抽軍功者也、謹言

  七月三日          自綱(花王)

    舟坂弥次右衛門とのへ


 とする感状が残されている一方、同年の文書と比定される九月廿三日付「舟坂文書」には、舟坂又左衛門が荒城郡八日町で敵首一つ討ち取ったことを賞する感状が発出されているからである。

 このことから、六月時点では自綱は、江馬家の本拠地高原まで江馬輝盛を追い詰めておきながら、同年九月時点では荒城郡八日町まで戦線を押し戻されていたことになる。両陣営によるシーソーゲームが繰り広げられていたのである。

 確かに松倉城の存在は自綱に心の余裕を与えたことだろう。

 しかしそれは籠城戦のときに初めて効力を発揮する代物だったのであり、このように敵領深く攻め入ったときには何らの力も発揮しない性質のものだった。その証拠に各所で激しく抵抗する江馬勢を、三木勢は打ち抜くことが出来ないでいた。

 ただ、戦線が高原より遙か南、大野郡との郡境に近い八日町に押し戻されはしても、松倉城が背後にあるというだけで自綱の心の余裕は随分と違ったことだろう。


 当初は不意を衝かれた形になって高原殿村の江馬家下館近くまで攻め込まれた江馬常陸守輝盛であったが、老臣河上(かわかみ)中務丞なかつかさのじょう富信とみのぶ等累代の家臣と力を合わせて八日町まで押し戻したあたりは、父時貞以来の武勇の為せる業であった。


「荒城川を越えれば国中くになかですが……」

 河上富信がそういって言葉を句切った。

 国中に至り三木家の中枢に押し寄せたとしても、高原の兵二百ほどでは音にも聞こえた松倉の嶮岨を抜くことなど到底出来るものではなかった。

(ここらあたりで退いてはどうか)

 富信は輝盛に対し、言外にそう勧めたのである。

 そして輝盛もさすがにひとかどの将であるから、寡兵での城攻めが愚策であることを知っている。

「心得ている富信。いまは兵を損なうときではない」

 そう言うと輝盛はきびすを返し、背後に控えていた江馬の諸兵に対し

「撤収」

 と短く告げた。

 一時は本拠地高原殿村近辺まで攻め寄せられ、その雪辱に燃えていた江馬の諸兵は、小身とはいえ古今稀な武勇を誇る当主輝盛に全幅の信頼をおいてその統率に従い、粛々と北へ流れていく。


 ここに、宿敵を嶮岨に引きつけて出血を強い、撃滅しようという自綱の企ては潰えたのであった。

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