一族の和、乱すべからず(六)
小高い鍋山の麓に人々は集う。
何者かによる不測の奪還を恐れているためか、宣綱切腹の儀は麓に集った人々の目に届かない鍋山城本丸において執行されるはこびとなっていたが、しかし高札に掲げられた宣綱切腹の儀は、人々の耳目を誘うに十分であった。
城下に集い、本丸に上がることを許されないような下々《じも》の人々は純朴であった。
彼等の心の奥底には
「自分たちは国司にお仕えしているのだ」
という、一種の矜持があった。
自分たちが育てて収穫した米が国司の食に供されるのだと思えば、侍の収奪に曝されると分かって作るそれよりも丹精の込め方が違ったし、城普請ひとつ取ってみてもそれは同じことであった。
古くは永仁年間(一二九三~九九)のころから飛騨とのつながりを持っている姉小路国司家に仕えているのだ、という飛騨人の一種独特の矜持は、三百年、数十世代を経ても、なお彼等の胸中奥深くに、遺伝子のように生き続けていたのである。
そしてその遺伝子は知っているのであろう。
いま切腹を申し付けられた姉小路古川宣綱こそが、彼等自身が奉戴してきた国司に真に相応しい人物であるということを。
その証拠に、宣綱の姿を仰ぎ見ることなど到底出来ない鍋山の麓にありながら、山上の鍋山城本丸に向かって伏し拝む者数多。
警固の侍が手鑓を片手に
「謀叛人の切腹であるぞ。伏し拝むを止めよ」
と恫喝しても、彼等はさながら曾て行われた国司仁政が失われようとしていることを惜しむが如く、伏し拝むことを止めようとはしなかった。
一面灰色の雲が空を覆い、雪が横殴りに吹き付ける。
寒風に吹かれながら、宣綱が鍋山城の白洲に姿を現した。
切腹の作法が確立された江戸期とは異なり、この時代、死装束としての白の裃は一般的ではなかったが、今日この時の宣綱はこの装束を選んで切腹の場に現れた。
不快そうに見とがめたのは自綱であった。
「その装束はなんとしたことか」
自綱は昂奮した口調で問うた。
まっさらな白の裃は身の潔白を主張する装束である。
宣綱は死に際して
「自分には一切罪はなく潔白である」
と言外に主張しているのだ。自綱はそこのことを咎めたのである。
「この期に及んで潔白を主張するなど笑止千万。そちには一族の和を乱したという立派な罪があるではないか。己が罪科を忘れ純白の裃とは笑わせおる」
自綱はここぞとばかりに罵倒した。これが手塩にかけて育て上げた嫡男に対する態度であろうか。
宣綱はもはや命数旦夕に迫り失うものなど何もなかったので恐れもせずに返して曰く
「如何にも。私には一片の罪科もございません。ただ民の塗炭を思い、三木家の明日に思いを残すのみ。父上こそ自らの装束をご覧じろ。罪科に塗れ、白いところが寸分もござらぬではないか」
と、自らの切腹を見届けようという自綱の装束を却って嘲うほどであった。
もはや自綱は容赦しなかった。
「おのれ往生際の悪いやつ。自らの所業を棚に上げて父に対し悪し様に罵るとはいよいよ以て許しがたし。早々に腹を切れ。切ってしまえ!」
自綱の言葉が終わらないうちに諸肌を脱ぎ気合いと共に腹に脇差を突き立てる宣綱。
激痛と夥しい量の出血に見舞われながら宣綱は言った。
「この仕置こそ一族の和を乱す行い。内訌そのものよ! 父上はいずれこの報いを受けることになりましょうぞ!」
宣綱はそう言いながら、視線を自綱から背けることがなかった。激痛にうめき、血に塗れながら怒りに満ちた視線を自綱に向け続ける宣綱。
自綱もまた、宣綱より投げかけられる鋭い視線から一度として目を背けなかった。
(我が三木家に内訌はあってはならぬ。そうなる前にやってしまわねばならなかったのだ)
介錯人によって打ち落とされた宣綱の首は瞼を閉じてはいなかった。
血の気を失い白くなった宣綱の首は、そのよどんだ瞳を死んでなお自綱から背けようとしなかったのである。
* * *
「飛州軍乱記」は、宣綱を自綱舎弟鍋山豊後守顯綱の一子とし、自綱が顯綱の悪心を憎んで宣綱共々殺害したなどとしているが、もとより物語の類いで信じるに値しない。鍋山顯綱と宣綱が親子でないことは各種史料からの明らかである。
姉小路古川宣綱の死については「歴名土代」に次のとおり明記されている。
藤宣綱 天正四十二十二。従五位上、同日侍従。同七、於国生害
おそらく右の記事を受けてのものだろう。「飛州志備考」所収「高野山過去帳」には
左衛門佐、天正七年二月二日鍋山
とあり、左衛門佐を宣綱としている。
一応本作においてはこの左衛門佐を宣綱に比定する見解に従って記しているが、実のところ「飛州志備考」がこの左衛門佐を宣綱としている根拠については不明である。或いは宣綱謀叛に連座した鍋山一族の切腹が、宣綱の処断と並行して行われたのかもしれない。
この「飛州志備考」の記事が宣綱と鍋山とのつながりを連想させ、「飛州軍乱記」の記事に発展したものであろうか。
戦国期飛騨の関係史料は極めて乏しく、欠損、散逸が多い。
したがって左衛門佐と宣綱の同一性をこれ以上深く探ることは現時点不可能であるが、いずれにしても嫡男宣綱が天正七年に「生害」というかたちで生命を終えたことだけは確実で、そうであれば後継者の地位を巡って父自綱と何らかの衝突があったことは間違いがない。




