一族の和、乱すべからず(四)
「一族間で争ってはなんにもならぬ」
死病に取り憑かれて病臥していた祖父、和州公直頼が、未だ元服していなかった自分にかけた言葉をよもや忘れたわけではない自綱。
父良頼にも増して大きく強かった祖父直頼が死の床についてからというもの、自綱は出来るだけその近くにいようと思って看病したものだった。
「竹原郷から興った我が三木家が、なにゆえ飛騨を代表する大身に成り上がることが出来たのか。よく考えよ」
祖父は息も絶えだえに、ことあるごと自綱にそう言って聞かせたものであった。
姉小路嫡流小島家はなにゆえ古川に取って代わられたか。
従二位大納言にまで登った姉小路古川基綱卿の血統は如何にして絶えたか。
古川小島両家が衰えるなか、姉小路向家が隆盛を逸したのはなぜか。
すべては一族間で相争ったことが原因であった。反目し合って手を携えることを忘れた一族がどのような結末をたどるか、三カ御所の末路がそのことを示していた。
直頼は三カ御所転落の顛末を自綱に語って聞かせると、決まって目を閉じ、眠り込んだものであった。
一族間で相争ってはならぬという、死に際して祖父が言い残した言葉は、根っこの部分で自綱の行動を規定していたのであった。
しかしそれにしてもこの飛騨という小国、三木家という小豪族ですらこれを束ねることの難しさといったら。
鍋山左衛門佐も岡本豊前守も、ただ自綱に従っておればそれで良かったものを、彼等はなにゆえ自綱の方針に反して一族の和を乱したのであろうか。自綱に従ってさえおれば彼等が成敗の憂き目を見ることはなかったのである。なのに彼等はそれをしなかった。自綱にとって彼等の行動は一族の和を乱す行為に他ならなかった。
成敗は必然であった。
そしていま、嫡男宣綱が自綱の方針に反して一族の和を乱そうとしている。
確かに宣綱は鍋山左衛門や岡本豊前守の如きとは一段立場の異なる人物であった。飛騨三木家の嫡男でありながら、姉小路古川の名跡を生まれながらにして約束されていたのが、この宣綱であった。
飛騨の一土豪から興った父、そして姉小路古川の子女を母に持つ自綱が、いかほど大金を投じて飛騨国司の職と名跡を買ったところで、僭称に等しく所詮俄仕立てにすぎぬと嘲われることはやむを得ないことであった。
しかし旧来の三カ御所が全く有名無実化したいま、当家こそ正統の姉小路古川であると認めさせるには、代を重ねるより他に方策がなかった。そして自綱は、それが概ね三代で成し遂げられると考えていた。
父良頼は人生の大半を三木良頼として過ごした。自綱のそれは良頼よりは少し短かったが、生まれながら姉小路古川名跡を名乗ったものではなく、これを得るまで三木自綱だった時期があった。
しかし宣綱は違った。
姉小路古川の名跡を既に継いでいた自綱を父に持ち、小島雅秀の娘を母に持つ宣綱は生まれながらにしての姉小路家の人間であった。三木家の血と姉小路家の血は宣綱のなかで融合し、一体のものになったのである。そうなった以上、もはや世上の雀どもは、三木家を嘲り、罵ることはなくなるだろうと自綱は信じて疑わなかった。
そう考えると自綱は、宣綱を処断することについて逡巡せざるを得なかった。
判断に迷ったとき、きまって自綱がすがる言葉がある。祖父和州公直頼の遺言である。
(一族間で争ってはならぬ。三カ御所の轍を踏んではならぬ。三木家に内訌はあってはならぬ)
自綱はもう迷わなかった。




