一族の和、乱すべからず(三)
「その心配はご無用でございます。私は少しも疲れておりません。私の疲れていない頭で考えているのは、父上や信長公が課した諸役のために疲れ果てている飛騨の人々のことでございます。
父上にはどうあってもお約束いただかねばなりません。
来春の越中軍役を断るよう、信長公にしかと申し入れを行うこと。そして疲れ果てた民力を養うことを、お約束いただかねばなりません。
さあ、群臣を前にこの場にてその儀、お約束いただきましょう」
宣綱は決死の覚悟を示すものの如く、膝行しながら自綱に迫った。いみじくも宣綱自身が言ったとおり、群臣居並ぶなかでの問答である。割って入った塩屋筑前の調停も不調に終わり、人々は父子の争いのとばっちりを恐れて顔を青くしながら発する言葉を失うばかりだ。
「……鍋山にて沙汰を待て」
しばしの沈黙を破って自綱が言った。
それは宣綱の詰問に対する回答ではなかった。
回答をはぐらかされたと感じたのか、宣綱が更になにか言おうとすると、自綱は
「問答無用! 宣綱を引っ立てろ! この者を鍋山に連行するのだ!」
と大喝して近習を呼び寄せると、宣綱はあっという間に自綱近習に取り囲まれてこれ以上発言することが出来なくなってしまった。
「その儀、御再考を!」
塩屋筑前がなんとか取りなそうとするが、自綱は耳を貸そうとしない。
それどころか
「先ほどの宣綱の発言は逐一誤りで聞くに堪えぬゆえ退出させたが、その言葉のなかにも一つ真実があったわ」
などと放言する始末であった。
これは、なんとか取りなそうとした塩屋筑前に向かって宣綱が言った
「一度は主家を捨てて出奔した身を顧みよ」
という言葉を引き合いに出した皮肉であった。
かかる皮肉のために取りなしの言葉を継ぐことが出来なくなった塩屋筑前を尻目に、自綱は奥に姿を消してしまった。
「嫡男宣綱が鍋山城に押し籠められた」
この報せはたちまち国中に知れ渡った。
先に自綱に諫言し成敗された鍋山左衛門佐や岡本豊前守の事例が、自ずと諸人の脳裏に過った。しかし人々はまだ、宣綱が彼等一門衆と同様の憂き目を見ることはなく、刑一等減じられるかもしれないとの希望を捨てられなかった。
鍋山左衛門佐も岡本豊前守も三木家の一門ではあったが、彼等は姉小路古川の名跡どころか三木家の名跡すら名乗れる家格の人間ではなかった。
それらに較べると宣綱はなんといっても嫡男という立場であった。三木家の名跡だけでなく、姉小路古川を名乗ることの出来る数少ないうちの一人にして、生まれながらの姉小路古川の男児こそ宣綱であった。
そのことを考えると、たとえ国主たる自綱の方針にあからさまに反対の態度を示したとはいえ、自綱といえどもそう簡単に宣綱を成敗してしまうことなど不可能なのではないかという観測もあり、いまはどちらとも言えなかった。
自綱自身、我が子の処断に頭を悩ませていたのであるから、人々にはいっそう読みがたいものがあった。
宣綱の赦免。
それは人々の願いと言っても良かった。
宣綱が言ったように、現下飛騨の人々はおしなべて疲弊していた。越中においては上杉を相手とする軍役が予定されており、塩屋筑前あたりは
「上杉の退潮は明らかであり、さほどの犠牲者は出ない」
と楽観視していたが、それなど自綱と宣綱の父子争いをさしあたり調停するための方便に過ぎないことなど百も承知の飛騨衆であり、もとより発言者自身がそのような見立てを正しいものだとは考えていなかったのだからとことん救われぬ。
先述したとおり越中方面に配されていた上杉の将は河田豊前守と椎名小四郎であった。いずれも生前の謙信に重用された重臣である。この方面の重要性に鑑み配された大身の侍であった。塩屋筑前が示した楽観的な観測どおりに簡単に抜けるような手合いでは断じてない。
越中方面における戦いは今後いっそう激化することだろう。冬将軍が織田勢の勢いを阻んでいるこの時期を、これら越中の上杉勢が無為に過ごすとも思われなかった。
巻き返しを狙っているのは織田勢だけではない。
折悪しくこの軍役に重なったのが松倉城築城であった。
城造りには金と労力がかかった。
城の材料、たとえば材木や縄、板材などは普請役が人足と共に持参するものとされたから、城普請に従事する人は労働力だけではなく物資も搾り取られたのだ。
しかも城は造ってしまえばそれで終わりではなかった。
飛騨国内に無数に造られた城のほとんど全ては土と木で造られた城であった。築城にかかる時間と労力が節約できる代わりにほころびが生じるのも急であった。そういった場合の修繕も人々に課される諸役の一つであった。
しかも兵乱ともなれば、城はいの一番に攻撃対象とされた。城下は真っ先に刈田狼藉の標的にされたのである。
城はそこにあるというだけで人々を苦しめた。
宣綱はこういった諸人の苦しみを汲んで、代弁したのである。




