山上の巨郭(五)
明けて天正七年(一五七九)正月、塩屋筑前は新城普請の現場に自綱を迎えていた。自綱は言った。
「この城を、拠って立つ山の名に因んで松倉城と名付ける」
松倉城は標高八五六メートルの松倉山に築かれた山城である。
なお博識の読者諸氏にいまさら説明不要であろうが一応解説しておくと、標高は現在の日本における東京湾の海面を基準にした土地の高さであり、海抜とは高さを測る土地の直近の港湾と比較した高さになる。どちらも海面を基準にしており、飛騨のような山国では標高や海抜と言われてもその高さを実感できないのが本当のところではなかろうか。要するに標高八五六メートルなどと聞けば随分高いところに城を築いたのだなと思われるかもしれないが、そう単純な話ではないということである。
これに対して直近の河床或いは谷底から山頂までの二点の高低差を表したのが比高である。松倉山の場合、標高は八五六メートルだが比高は二七〇メートルである。河床や谷底から計測してこの高さなのだから、登山口などから計算すれば数字はもう少し低いものになる。しかしそれにしても高いところに築かれた城には違いない。
平成八年(一九九六)に岐阜県教育委員会が実施した岐阜県中世城館総合調査及び近年行われた発掘調査により、中世飛騨の城館跡の実相がほぼ明らかとなった。その中でも問題になったのがこの松倉城である。
従来松倉城は、天正七年(一五七九)に三木自綱が築いた城とされてきたが、現存する松倉城には石垣が多用され、更に複雑な構造である虎口が認められる。これらの特徴は明らかに織豊系大名の築城傾向を示しているとされ、現存する松倉城跡はどうやら三木自綱による築城ではなく、後に飛騨に入部した金森長近の手が加わったものらしい。
もちろん三木自綱も信長が琵琶湖畔に建てた安土城の噂を聞いて知っていただろうが、現存する松倉城ほどの規模を誇る石垣を、この時期の三木家が築城できたとは考えられず、なによりも従来の三木家関係城館が比較的単純な方形単郭型で構成されているのに対し、複雑な防御機構が入り組んでいる点が、この城に織豊系大名である金森氏の手が加わったことを示唆している(平成二十六年度下呂ふるさと歴史記念館秋の企画展「三木氏の城・金森氏の城 戦国城館の発掘調査」関連企画 滋賀県立大学教授中井均氏講演会要旨「城から探る飛騨の戦国時代」)。
後年築かれることになる石垣作りの堅固な城塞を知らない自綱は、いま目の前の松倉山上に築かれている松倉城に目の眩む思いであった。
高さに眩んだのではない。
永年離合集散を繰り返してきた飛騨を、遂に自分が統一に導くのだという栄華に酔ったものであった。
飛騨国内で行われる戦いは、双方合算しても数百人規模で競り合われるのが関の山であった。防御の手薄な方形単郭型平城ならばいざ知らず、松倉山ほどの比高を誇る山に築かれた城に籠もってしまえば、少なくとも国内の如何なる勢力もこの城を抜くなど不可能であった。そのことを考えると、この城さえあれば、他の何者が挑みかかってきたとしても返り討ちに打ち破ることなど容易く、それだけに我が手による飛騨統一が果たされる日も近いと自綱は確信し、その思いに酔ったのである。
その晩、自綱は桜洞城に諸将を招集した。
上座の自綱は近年見ないほど上機嫌であった。
自綱はその席上で松倉城の威容を誇り、そして自分はまもなくその松倉城に移ること、そして現下、戦線は雪のため膠着しているが、雪解けと共に信長の軍勢は上杉を打ち破り、北陸は全く織田家の掌中に墜ちるであろうことを予言した上で、如何に自分の政策に誤りがなかったかを口角泡を溜めて力説した。
もはや自綱の方針に異を唱える者は誰一人としてなかった。
先代以来友誼を取り結んできた上杉家はいまや崩壊の危機に瀕しており、自綱の言うとおり北陸における織田家の伸張を阻むものは雪以外にないという情勢であった。
自綱の口調は次第に熱を帯びたものになっていった。
「長篠に敗れた武田に昔日の勢いはなく、謙信亡き上杉もまた同じ。我等は信長公御創業に与した家としてその栄誉を讃えられることであろう」
自綱が昂奮混じりにそう言葉を句切ったときのことである。敢然異を唱える者がある。
嫡男宣綱であった。




