山上の巨郭(三)
越後の混乱は極みにあった。小田原の北条氏政に請われて出馬した甲斐の武田勝頼は、景勝と景虎との和睦交渉を遂げることなく中途半端な状態でこれを投げ出し撤退、一方解決の決め手になると思われた北条氏政による軍事介入も冬の到来を前に頓挫して、北条勢は越後樺澤城に最低限度の兵を残し本国に撤退する体たらくであった。越後はこのため、力の拮抗する当事者同士の泥仕合がだらだら続く事態になってしまったのである。
越中の河田豊前守長親は景勝派であったが、だからといって景勝からの後詰が見込める局面ではなかった。本国でだらだら戦いが続いている以上、河田豊前守は自力で越中を守らねばならなかった。
しかし後詰がないといってもさすがは謙信に買われて重用されただけあって、河田豊前守の抵抗は頑強であった。このため織田方の侵攻を受けても、越中においては当初上杉方が優勢だったという。
信長は攻勢の頓挫を恐れて齋藤新五郎利治を増派した。北陸方面軍だけではなく、濃尾の兵も越中方面に投じ始めたのである。このためさすがの要衝津毛城も陥落し、勢いに乗った織田勢は遂に椎名小四郎(長尾景直)が籠城する今泉城に押し寄せた。
曾て生前の謙信旗本を務めたこともある椎名小四郎の抵抗は激烈で、今泉城攻略の織田勢は撤退を余儀なくされた。劣勢だった河田豊前守はこの撤退を見逃さなかった。追撃の兵を繰り出したのだ。
しかしこの織田方の撤退は偽装であった。
齋藤新五郎は道中踏んだ月岡野の地形が複雑に入り組んでいることを事前に把握しており、追撃の河田、椎名を振り切らず、かといって捕捉もされない絶妙の間合いを保ちながら死地に誘い込んで大破した。
世に月岡野の戦いと呼ばれる一戦である。
信長は謙信亡き後とはいえ、武田勢と並んで武勇日本一と謳われた越後の兵を大破したことを大いに喧伝した。
通常、戦勝の喧伝は多少割り引いて考えなければならないものであった。勝った側が戦果を過大に吹聴することは当たり前だからだ。その逆もまた然り、負けた側は被害を過少にいうものであった。武田勝頼は長篠で大敗を喫したあと、実情を訊ねる松永久秀家老岡修理亮に対して
「敵将を多数討ち取ったがその際に先手がいささか利を失った」
と書き送っている。
実際には長篠合戦で武田方が敵の名のある大将を討ち取った事実は認められないし、先手が利を失ったどころか全軍壊乱の憂き目に遭っているのだから事実を正確に伝えているとはいえない。
負けたからといって
「はい負けました」
とは口が裂けても言えなかったのである。
このように他国向けの戦果の喧伝が眉唾物のプロパガンダなのに対して、家臣に下された感状の有無は戦果を正確に評価する尺度といえる。これは戦功のあった家臣に主君から下される感謝状であり、個人の武勇を示す公式の証明書であった。
戦勝の際には多く発行されるし、敗戦ではその数が激減することは自然の道理であった。
そしてこの月岡野の戦いでは、齋藤新五郎宛信長感状が残されている。
注進之趣披見候、仍去四日河田豊前椎名小四郎令一味、相催一揆動候処、則及一戦切崩、三千余人討捕候条、粉骨之段無比類、感情不浅候、(中略)
十月十一日 信長(朱印)
齋藤新五郎殿
「三千余人討捕」云々は修辞であろうが、この戦いの後、越中の勢力図が織田方有利に傾いたところを見るとやはりその勝利は揺るぎないものだったと評価することが出来よう。
自綱が信長の要請に従って越中に入り、齋藤新五郎等に合流したのはこの直後のことであった。
越中へと向かう道中、馬上の自綱の顔に冷たいものが落ちた。越中に冬の到来を告げる雪が舞い始めた。




