翻弄される下々の国(七)
「飛騨勢は越中黒川に参集し、しかるべく準備を調えた上で本隊と合流せよ」
本国越後からこの指令を受けたのは、飛騨から栂尾に逐電した塩屋筑前守秋貞であった。このころの塩屋筑前は、上杉の統制に従わなくなった三木自綱に代わり、飛騨を代表する部将として上杉方に認知されていたのである。
塩屋筑前が加わる予定だったこの軍は過去に類例のない大軍になるというもっぱらの噂であった。
この前年(天正五年、一五七七)から謙信は、将軍義昭から頻繁に上洛要請を受けていた。その頻度はといえば、「上杉家御年譜」によると二月、四月、八月といった具合であり、しつこいほどに上洛を熱望されていたことが分かる。そして義昭から上洛要請が頻々と届けられていたまさにこの年、謙信は七尾城を陥れ手取川に織田勢を大破したのである。謙信にとって上洛への道は、眼前に開けているのと同然であった。
「松隣夜話」によると、北条氏政と、長篠戦役以来信長に対して劣勢だった武田勝頼も謙信への協力を申し出ており、この二大勢力合計五万三千が東海道方面を、謙信本隊五万が更に北陸諸将を糾合しながら合計六万四千の大軍に膨れ上がって北陸道をそれぞれ西進し、織田信長の領内に雪崩れ込む予定であったという。
合計十二万に近い大軍であり、実現しておれば後年の関ヶ原や大坂の役をはるかに凌ぐ規模の決戦が行われていただろうことは想像に難くない。
塩屋筑前は三木自綱を見限った自分の選択が誤りではなかったことを改めて確信した。無論塩屋筑前の如き末端の軍役衆には、国家の最高機密である動員兵力や攻撃目標などの詳細が知らされることはなかったが、北陸道西進を指向していた謙信による近年の動向に鑑みれば、上洛の意図を有していることは明らかだったし、関東北陸はもちろん、奥羽の一部にまで及んでいた謙信の勢力圏も鑑みれば、その動員兵力が過去に類例のない規模になるという噂も塩屋筑前にとっては納得のいく話であった。
塩屋筑前はこの謙信の上洛戦に際して、老骨に鞭を打ち、求められる以上の働きをするつもりであった。謙信が認める働きをして、誰にも文句を言われることのない形で、曾ての主家、三木家の赦免を願い出るつもりであった。自綱が成敗されるのは仕方のないことだとしても、その子宣綱だけはなんとしても守り通さなければならなかった。三木家の滅亡は、自身の永年にわたる投資が無駄になるのと同じことだと塩屋は考えていた。
そして越後から指定された参集の日を迎えた塩屋筑前。
塩屋は麾下の兵とともに謙信本隊を待った。「毘」の旗印を掲げ、雲霞の如き大軍を率いてその陣頭に立つ軍神の出現を塩屋筑前はひたすら待った。
一日、二日と過ぎてゆき、指定された日が過去のものとなってゆく。
大軍の動員に遅れはつきものである。きっとどこぞの誰かが未だに参集を遂げていないのだろう。
そんなふうにのんきに構えていられたのは五日を過ぎたころまでであった。
先に流れてきたのは噂であった。
「謙信公が亡くなられた」
という噂であった。
塩屋筑前にとってそれは、到底信じられる類いの話ではなかった。真相が明らかにならないまま、軍役は解除された。塩屋筑前の一隊は、いくさどころか行軍に従軍することすらなく栂尾に帰還しなければならなかった。
越後府中において謙信の葬儀が執行されたのは、皮肉にも大軍を率いての越府出立を予定していた天正六年(一五七八)三月十五日のことであった。謙信が死んだという噂は本当の話であった。
書によって数字はまちまちだが、最大で十二万の大軍を率いて入京する予定だったという謙信が、よりにもよってその出陣予定日に、たった一人で冥府に旅立つことになるなど誰が予想し得たであろう。周囲の、そして何より本人の無念如何ばかりだったか。
そして無念といえば塩屋筑前も同じであった。旧主自綱を見限り飛騨を出奔してまで付き随った上杉謙信が、創業を目の前にして逝ったのだから肩を落とすのも当然のことであった。
自分はいったい何のために飛騨を出奔したのか。上杉や織田といった大国に翻弄された結果がこれか。
塩屋筑前をいっそう幻滅させたのは謙信の養子二人による家督争いであった。少なくとも塩屋筑前には、上杉の将としてこの内訌を戦うという選択肢はなかった。
それまで塩屋筑前を内側から支えていた新主上杉家に対する忠節や希望は萎え果て、いまは三木家を見捨てて上杉家に鞍替えしたという過去の行状ばかりが、内側から支えるものを失った塩屋筑前に重くのしかかっていた。このままでは塩屋筑前は、その重さのために自壊しかねなかった。
(あの男に頭を下げるしかないか)
塩屋筑前の瞼に浮かぶのは、曾て見限った三木自綱の顔であった。




