翻弄される下々の国(六)
七尾城を重囲の内に囲い込んだ越軍であったが、天正五年(一五七七)三月、突如その包囲を解いて帰国の途に就いた。
結果的に見てこれは、春の訪れとともに関東に蠢動しはじめた小田原北条氏に対処するため越後に帰還しようという動きであり、飛騨に対する何らの軍事行動でもなかったわけだが、関東方面の情報とは無縁の自綱は、越後の一挙手一投足が気になって仕方がない。
「七尾城の包囲を解いて軍を飛騨に差し向けてくるのではないか」
その不安が自綱を襲う。
しかし縷々陳べてきたように、既に上洛を決意し、その地ならしのために七尾城を囲んだ謙信が、いまさら地味に乏しい飛騨のような小国に攻め寄せる道理がない。但し傍目八目とはよく言ったもので、えてして当事者にはそのあたりの道理が分からないものだ。不安が理性を上回るからだろう。
なので自綱は越軍による侵攻これある日を覚悟し、
「越軍の侵攻を受けたら一族と最低限の家宝を担いで織田領に逃げ込むしかない」
と秘かに思い定めていた。
越軍の動向にこうまで不安を感じるのなら、塩屋筑前や嫡男宣綱が言ったとおり、上杉織田両家跨がる二重外交に舵を切り直せば良いではないかと余人は思うかもしれない。
しかし前述したとおり、現在展開されている親織田家の外交方針は、慎重論も多いなか自綱が主導して推し進めてきたものであり、かかる外交を強力に推進してきた張本人が、目の前で怒濤のように押し進む越軍の動向に恐怖した挙げ句前言を翻してあっさり方針を変換すれば、求心力の低下は免れないだろう。
一見外交方針を巡る問題のように見える話だが、つまるところこれは飛騨の国内問題であった。
七尾城包囲の解除と越軍の帰国が飛騨侵攻と無関係であると知って安心した自綱であったが、安穏は長くは続かない。謙信は同年閏七月には七尾城を再度包囲する。つまり謙信はこの年、三月の第一次七尾城包囲に続いて関東出兵、更に閏七月に第二次七尾城包囲と、文字どおり東奔西走していることが分かる。北陸を巡る上杉と織田の陣取り合戦それほど熾烈だったのだ。これまで表面上は友好関係にあった上杉と織田の両家が決裂するのは時間の問題であった。
さて、角逐の最前線である七尾城は二度目となる上杉方の攻撃のために、凄惨な籠城戦を強いられることになる。
これは、畠山方が籠城兵の足しにするために領民を城内に囲い込んだことが原因で、軍民合わせて一万八千人もの人々を収容した七尾城の屎尿処理能力は早々に限界を迎えてしまう。
城内にコレラが蔓延し、極めて不衛生な状況に置かれた、下は無名の民草から、上に至っては城主春王丸までが病のために斃れた(享年六歳と伝わる)のだから、まさに凄惨というよりほかない。
畠山家重臣で親信長派の長続連は窮した。城内には親上杉も多い。幼君の死は長続連の求心力を損なわせるに十分であった。このあたりの事情は飛騨の内情と似通っている。大国に挟まれた国は、どこも同じようなジレンマに悩まされていたのだ。
兎も角も起死回生の策は信長による救援しかない。続連は安土城に後詰要請の使者を遣った。続連より要請を受けた信長は、遂に謙信との手切れを決意する。
しかし謙信の意を受けた越前一向一揆は七尾城救援軍を諸方で妨害して行軍は進まず、七尾城は陥落した。九月十五日のことであった。
因みに上杉謙信と北陸一向一揆といえば宿敵同士というイメージが強いが、この時期、織田信長という共通の敵を前に共闘している点は興味深い。
此書物後世ニ御らんじら、御物がたり可有候、然者五月廿四日いきおこり候まゝ、前田又左衛門尉殿いき千人はかりいけどりさせられ候、御せいばいハ、はツつけ、かまニいられ、あふられ候哉、如此候、一ふて書とめ候
(この書き物を後世に見れば語り伝えてほしい。五月二十四日に一揆が起こり、前田又左衛門尉(利家)に一揆勢千人ほどが生け捕られた。処刑方法は磔、釜で炒られ、炙られた。このことを一筆書き留めておく)
越前小丸城跡より、右のような文字が刻まれた瓦が出土したのは昭和七年(一九三二)のことである。何者かをして書き残さずにはいられなかったほどの大虐殺が信長麾下の前田利家によって行われたのである。この苛烈な処置が宿敵同士を結びつけたのであろうか。
散々妨害された後詰の大将柴田修理が七尾城陥落を聞いたのは、加賀郡手取川に到達したころであった。七尾城は既に陥落し、謙信は末森城に入城したと知った柴田修理は利あらずと見て撤退を決意するが、目と鼻の先に迫っていた越軍を前に敵前渡河を強いられる形となったために大敗を喫する。或いは夜戦に及んだとも伝わる。所謂手取川の戦いである。
合戦の規模については諸説あるが、上杉方の勝利に終わったことは間違いがなく、北陸方面においては織田方の退潮、上杉の勢力伸長という傾向がこの戦いで明白となった。
洛中では
上杉に逢うては織田も手取川
はねる謙信 逃げるとぶ長
との落首が大いに謳われたという。
洛中で噂になるくらいだから、飛騨にも織田方敗北の噂は届いていた。
(畠山の次は自分の番かもしれない)
内心秘かに思い詰める自綱。
震えがどうにも止まらない。




