翻弄される下々の国(二)
越中栂尾に岡本豊前守からの密使を得た塩屋筑前守秋貞は、その用向きについて即座に理解した。家中における岡本豊前の席次から考えれば、飛騨を出奔した自分に代わって岡本豊前が上杉家取次に任じられたことは、塩屋筑前にとって納得のいく話であった。
密使は案の定、
「主君(自綱)は上杉との同盟破棄をいまも模索していますが、そうすれば謙信公による飛騨討伐はあり得るでしょうか」
との疑問を口にした。
そもそも塩屋筑前とて、飛騨の人々が憎くて出奔したわけではなかった。上杉との取次を担うような立場になければ、いまでも三木家に出仕していたに違いないのである。それがかなわなくなったのは、ひとり自綱が信長一辺倒の外交関係に舵を切ったからに他ならぬ。そういった事情がなければ、累年飛騨に築いた自分の地歩を放擲してまで誰が越中くんだりまで逐電するものか。
塩屋の脳裏に、一瞬そのような考えが浮かんだが、それは密使の問い合わせとは何ら関係のない話であった。塩屋は脳裏に浮かんだ愚痴のような考えを振り払ってこたえた。
「その点に関してはわしも心配していたところで、飛騨を出奔し御実城様(謙信)に面謁した折、直接訊ねた。
これに対して御実城様は、余は既に能登出兵を決意しており、自分が決意した以上、能登攻略は間違いなく果たされる。そして余の能登攻略にかける決意に揺るぎがない以上、三木家を討伐するなどあり得ん話だと仰せであった」
塩屋筑前は謙信の言葉を密使に伝えた後、更に付け加えた。それは
「わしは御実城様には、飛騨攻撃の意図はないと見た。しかしそれは現段階での話であって、今後信長と上杉の勢力圏が更に接近して争う事態になった場合、飛騨はそれでも絶対安全だとは言い切れぬ。したがってわしは御実城様に、もし折檻下さるのであれば自綱公ひとりに対して願いますと申し上げておいた。
万が一飛騨が御実城様の討伐を受けることになっても、宣綱公に累が及ぶことはないと思うが……」
という言葉であった。
岡本豊前守は、密使が持ち帰った塩屋筑前からの情報にひとまず安堵した。
翌月九月(天正四年、一五七六)のことである。
越後の大軍が動いた。
塩屋筑前が言ったとおり、謙信は能登攻略を目指して畠山氏討伐の軍を起こし、二万の大軍でその本拠地七尾城を包囲したのである。
対する城方は二千ばかりの寡兵であり、かつ練度において累年軍役を重ねてきた越後諸衆に敵うものではなく、さすがに天下の堅城七尾城はそう簡単に陥落することはなかったが、支城群はあっという間に越軍の掌中に落ちた。
自領をかすめて西進した越後の大軍に戦慄したのは他ならぬ自綱であった。
このあたりの事情は、曾て弘治三年(一五五七)、武田の一軍が信濃国安曇郡小谷筋を、飛騨をかすめるように北上していったときに似ている。このときも飛騨が攻撃対象になったものではなかったが、自領をかすめていった隣国の精兵に、当代良頼は肝を冷やしたものであった。そもそも謙信の目標は能登攻略なのであって、いまさら地味に乏しい飛騨を二万もの大軍で攻撃する必要性が謙信にはなかったのだが、そんな見立てに安堵できるのは部外者だけだ。
もし何かの気まぐれで越後の鋭鋒が飛騨に向いてきたなら、高い代償を支払わされるのは部外者ではなく他ならぬ自綱本人であった。しかも自綱には越後の兵を受ける心当たりがあった。いうまでもなく、近年その陣営からの離脱を指向し、信長に接近していたことである。
上杉家取次たる岡本豊前は謙信による三木家討伐がないだろうということを塩屋筑前から聞いて知っている。知っているが、その情報の出所が三木家を出奔した塩屋筑前というだけあって、そのことを自綱に復命できないでいた。裏切り者と連絡を取り合っていたことが露見することを恐れたためであった。
自綱はひとり、越軍の影に怯え、打ち震えていた。




