塩屋変心(三)
塩屋筑前は越後の兵に護衛されながら春日山城へと至った。自綱が上杉家と三木家の永年の友誼を排し、織田信長一辺倒の外交関係を企てていると注進するためであった。塩屋筑前は黒い道服姿で上座に座する謙信を目の前に置いて言った。
「近年の自綱公の信長公偏重には目に余るものがあります。先日など家中衆を目の前に置きながら、謙信公を呼び捨てにして公然と越中在番に対する不平不満を口にするなど、過去上杉家と当家との間で築いてきた関係に鑑みても、もはやその言動は捨て置けません。また僭越ながらこの塩屋筑前、これまで主家に対し無二の忠節を尽くしてきたものであり、上杉家取次たるを以て家中における序列一位を保って参りましたが、御先代御意向を無視する自綱公独自の路線により、家政の中枢より外されつつあります。到底承服しがたく、このような挙に及んだものでございます」
と、三木家中における最近の変動を言上しつつ、逐電の理由を説明した。
続けて塩屋筑前は、
「このように謀叛の企てを隠さぬ自綱公でございますが、これなど当代の一存であり、家中のほとんどは旧来より続く上杉家との友誼をいまも望んでおります。これは御先代御意向によるもので、就中自綱公嫡子宣綱公にあらせられては恐れ多くもそれがしの苦衷をお汲み頂き、今回の出奔に際して格別のお言葉を賜ったものにございます。
折檻あそばされるならば自綱公ひとりにとどめ置くことを併せてお願い申し上げるものでございます」
と、宣綱による三木家継承をこの段階で願い出たのであった。これが塩屋筑前の、三木家に対する最後の忠節であった。
謙信は塩屋筑前の口から自綱謀叛の報せを聞いても怒らない。むしろ余裕の表情で、
「左様であるか。
当家の越中経営が順調に進んでいる折、余は当年中には能登に兵を進めんと考えておる。そのようなときに飛騨が我が陣営から離れることは慚愧の念に堪えないが、それは飛騨にとって残念な結果になるというだけで、上杉が自綱の謀叛によってどうこうなるものではない。余は飛騨の向背がどうであれ、能登に兵を進めるつもりだ。その決意に変わりはない。
そして余の決意に変わりがない以上、余が飛騨の三木家を討伐するなどこの期に及んであり得ん話だ。安心せよ塩屋筑前」
と言った。
三木家が上杉陣営から離れるという報を得ても、なお改めて上洛への野心を口にする謙信。
もとより飛騨の如き小国が背後から匕首を突きつけてきたとて歯牙にもかけないのだろう。
塩屋筑前は、その謙信の言葉を信じて、宣綱への速やかな家督移譲に望みをつないだのであった。
このように、塩屋筑前が三木家の赦免を願い出ていたことも知らず、自綱は塩屋が古川蛤城在城の任務を放棄した挙げ句、越後に逐電したことを知って激怒した。
「かくなる上は監物三平ともに捕らえて首を刎ねよ」
とまで言ったが、筑前守秋貞のみならず二人の子も同時に逐電したと知った自綱の怒りはひととおりではなかった。
ここで、父の狂態を目にした宣綱が言った。
「父上は永年にわたる当家と上杉の友誼を排して、信長公と新たな関係ばかり重視して参りました。これでは家中に重きをなしてきた塩屋が逐電するのも無理はありません。先に鍋山左衛門佐が諌言に及んだのも恐らく同じ理由によるもの。
思うに上杉、織田両家と友誼を深めることは不可能ではありません。もし両雄相争うというのであれば、そのときに至ってから情勢を見極めれば良いのであって、いまから信長公一辺倒の関係を築くのは危ういと存じます。塩屋が申していたのはとどのつまりそういうことでございましょう」
と、一廉の将にも優る見識を示したのであった。
しかし自綱はかかる見識を示した宣綱に対し、喜ぶどころか俄に怒気を発し、
「やかましい。無礼を申す出ない宣綱。余は大国同士が争う現下の情勢を見極めた外交関係を築こうとしているのだ。元服も果たしていないそなたの意見など、誰も求めていない」
と、嫡男をことさら軽んずる叱責を諸人の目の前で加えた。
通常、自分の後継者に対しては、その立場を周囲に知らしめるため、ことさら重んじた言葉遣いをするものである。たとえ自分の意向に沿わぬ発言をしたとしても、その場で叱責したりせず、人の見ていないところで教え、諭したりするものだ。
しかし自綱は面と向かって新たな方針を批判された怒りからか、嫡男に対してそのような気遣いを示すこともなく、人々の前で叱責したのである。
宣綱は青ざめた顔になって父の前を退出した。
宣綱後継の既定路線に亀裂が走った、これが最初であった。




