塩屋変心(二)
自綱自身がこれまで度々口にしてきたように、姉小路古川の名跡を三木家が継承したことを俄仕立てと嘲り、軽んじる人は実際多かった。
自綱自身、三木家がそのように軽んじられることを、やむを得ないことだと思っていた。もし自分が余人としての立場に立てば、飛騨に盤踞する一国人領主がそのような分不相応の名跡を得ようと奔走する様を、同じように嘲り、罵るに違いなかったからである。
そして、名跡継承より数代を経なければそのような世上の嘲り罵りは止まらないだろうということを、自綱は知っていた。自綱は自家の名誉にかけて、宣綱元服の儀と、宣綱に対する姉小路古川名跡継承を確実なものにするつもりだった。それさえ成れば、三木家は姉小路古川家として実を伴う家と、いよいよ世間は見做すことになるだろう。自綱はそのように信じた。
一方、用途献上を求められた塩屋筑前である。
彼は事前の決意どおり、三木家と袂を分かつつもりであった。但しそれは、塩屋家を士分として取り立ててくれた三木家に対し、最後の奉公を済ませてからであった。
塩屋筑前はある日、元服を控える宣綱と面会した。用途を献上するためであった。
宣綱はうやうやしく用途を献上した塩屋筑前に対し、
「日頃済まぬ。わたくしのために取ってくれた労を多とする」
と、その父自綱の口からは決して放たれることが期待できない労いの言葉を言った。
その途端、不思議なことが起こった。
塩屋筑前の両眼から、はらはらと涙がこぼれ落ちたのである。
それは塩屋筑前自身が予期しなかった落涙であった。塩屋は自分が涙した理由をあれこれと考えた。
それは主君からついぞかけられることがなかった労いの言葉を得たから、という理由だけではないような気がした。
高貴の御身より賜った言葉。その人物と袂を分かたねばならぬ無念。
これ以外に明確な理由が見付からない。
三木家は確かに、塩屋筑前の永年の出資により、姉小路古川の名跡を得た。その名跡を得て既に二代十六年に及んでいたが、飛騨統一の過程で幾多の戦場を踏んできた血生臭さは二代目自綱に至っても容易に拭い去れるものではなかった。
そして姉小路古川を継承して三代を閲し、遂に三木家は本当の意味で、姉小路古川になったのである。それを証明するかのように、宣綱から滲み出るなんともいえない高貴の風情。
これは父自綱が決して持たないものであった。
古川英子を祖母に持ち、そして小島雅秀の娘を母に持つ宣綱の中で、三木家の血が薄まってゆき、彼の代に至って遂に公家としての実を身につけたということなのであろう。
それは塩屋筑前の永年の出資が実ったことをも証明していた。
飛騨の三木家如きが独力で姉小路古川の名跡を得るなど不可能な話であった。これが可能だったのは、ひとえに塩屋筑前が主家に対し出資してきたからに他ならぬ。
いま宣綱が高貴の風情をその身に帯びているということは、塩屋の出資が実を結んだということと同じであった。
よりにもよってその宣綱と袂を分かたねばならないことに、塩屋筑前は涙したのである。
そして驚くべきのことに宣綱は、涙する塩屋筑前を前に置きながら、その涙の理由を一瞬にして理解したようであった。
なんと彼は塩屋筑前に対し
「そのように涙するものではない塩屋。我等再び手を携えるときが必ずや来るであろう。そこもとの力が、当家にはまだ必要なのだから」
という言葉を発したからであった。
それは次期当主宣綱が、塩屋筑前が秘かに胸の裡に抱える不満を汲んで、これに理解を示したことと同じであった。塩屋筑前は涙ながらに宣綱の許を辞した。
その夜半、塩屋筑前は当時在城していた古川蛤城から秘かに逐電した。
嫡男監物、次男三平を伴った、最低限の家財すら携えぬ飛騨からの逃避行であった。
角川を越え、越中東街道を北へ北へと流れていく一行。ほとんど身一つともいえる軽装である。五十も半ばに達した塩屋筑前にとっては苦労の多い山越えであったが、もはや飛騨に寄る辺を持たぬ筑前は愚痴めいたことを何一つ口にしなかった。
一行は遂に越中黒川に達した。上杉の支配領域であった。
上杉の番兵から誰何された塩屋筑前はこたえた。
「飛騨から参った塩屋筑前の一行である。旧主自綱に謀叛の企てあり。御実城様にお伝え願う」
というものであった。




