自綱上洛(七)
では信長は何故そのようなところに本拠地を構えたのであろうか。
琵琶湖の水運を掌握するため、というのも理由の一つだろうがそれだけではあるまい。琵琶湖内岸の良港は他にも多くある。もし安土が良港だったというのならば敢えて城下町の振興政策をぶち上げる必要もないほど繁栄していたことだろう。
私には、信長が京都との微妙な距離感を保つために敢えてこの辺鄙な地を選んだのではないかと思われてならないのである。
当時、公家、特に下級官人にとっては、行事のたびごとに下賜される手当こそ主要な収入源であった。朝廷という大きな組織体にとって、朝廷行事の執行が重要事だったことは当然のことだったが、公家個人にとっても、その執行は生活にかかわる重要事だったのである。
この時代の公家の日記には、朝廷行事が中止になったり繰り延べになったことを嘆く記述が散見される。
こういった記事について
「朝廷行事が行われず伝統が途絶えることは、嘆かわしい」
という解釈をするから、その書き手である公家に対して
「朝廷行事の執行にこだわる守旧的人物」
という偏ったイメージを抱いてしまうのである。そこにあるのは、白粉を塗った顔をいやらしくにやつかせながら、鉄槳を塗り重ねた歯を扇で隠すステレオタイプなお公家さんのイメージに他ならない。
たとえばこれを
「朝廷行事が行われず収入が途絶えることは、嘆かわしい」
と読めばどうか。
公家という、一種得体の知れない人種と私たち現代人との間にある垣根は途端に取っ払われ、収入の途絶に嘆く一人の人間としての姿がくっきりと浮かび上がってくるように感じるのは、決して私だけではあるまい。時代や身分の差こそあれ、彼等も私たちと同じ地平に立つ人間としての息吹が吹き込まれたように、解釈を一つ変えただけで感じられるのだから、歴史というものはつくづく面白いのである。
なお、さきほど半将軍細川政元の事例を紹介した。政元が後柏原天皇の即位式典挙行を認めなかったという話である。実は信長にも同じような事例が認められる。正親町天皇の譲位問題のことである。
信長側から譲位の強要があったとするならば、朝廷と信長は対立関係にあったし、天皇側から信長に対して譲位式典への出資依頼があったとするならば、信長と朝廷は協調関係にあったということになる。この問題の解釈如何によっては信長の朝廷に対するスタンスが百八十度変わってしまう日本史学上の論争の一つである。
ここで改めて先ほど述べた
「下級官人にとっては行事のたびごとに下賜される手当こそ主要な収入源」
というファクターを加味して正親町天皇の譲位問題を概観したい。それによって正親町天皇譲位問題のこたえが自ずと見えてくるからである。
この問題は圧倒的に
「天皇側から信長に対して、譲位式典への出資依頼があったもの」
つまり、譲位は正親町天皇が望んだものと解釈すべきである。
先述のとおり朝廷行事の執行は公家にとっては収入につながった。天皇の譲位ともなれば、通年行事ではないから、公家にとっては臨時収入ということになる。さぞかしありがたい話だったことだろう。
正親町天皇からすれば、(自分もそのような権勢を振るいたいと思ったかどうかは別として)曾て院政を敷いて権勢を振るったという上皇の地位を望むことは当然の心理だっただろうし、官人の生活費を工面してやらなければならない必要性もあっただろうから、天皇としてある程度勤めたならば譲位はむしろ望むところであった。逆に天皇が譲位を拒否したとなれば、天皇が官人の収入を絶ったということにもなりかねない。朝議を無視した暴挙と受け取られ、家中に求心力を失う由々しき事態を招来したことだろう。
そういった意味合いからも、信長の側から譲位を強要したという見解には賛成できない。譲位は飽くまでも正親町天皇を筆頭に、朝廷が総意として望んだものだったと断じることが出来よう。
しかし一方で譲位に要する費用は莫大であった。官人に支給してやる人件費はもちろんのこと、そもそも譲位は上皇が居住する仙洞御所の造営から始まるのであって、このころの朝廷や将軍義昭にそれだけの支出が可能だったとはとても思えない。
正親町天皇の譲位は紆余曲折を経て、天正十四年(一五八六)十一月に挙行されることになるのだが、譲位に先立つ仙洞御所造営に関連し、「宇野主水日記」は、噂話と前置きしながらも譲位にかかる諸経費として合計一万貫という数字を記している。現代の貨幣価値で約十億円に換算されるという(金子拓著「織田信長〈天下人〉の実像」七十二頁参照)。
信長にとっても痛い出費だったことだろう。結局信長はあれやこれやと理由を付けて譲位式典の延期を重ね、その存命中に果たされることはなかった。
細川政元のような剥き出しの本音こそ残されていないが、信長も肚の底では
(やってられない)
くらいのことは思っていたかもしれない。




