自綱上洛(五)
「遠路はるばる、ようそお越し下された」
信長は五年前(永禄十三年、一五七〇)に初めて顔を合わせた時と同じように、上洛してきた自綱を労った。次いで信長は、二年前に、信長自信の命によって自綱が郡上の両遠藤を討った功績を讃えて、
「姉小路宰相殿は当家の無二の盟友である。飛騨は我が分国の根幹をなす美濃に接しているゆえ、今後とも入魂の間柄でいたいものだ」
と格別の言を与えた。
信長は五年前と比較して幾分痩せはしたが、全身から発する覇気は五年前のそれをはるかに凌駕するものであった。宿敵武田を打破した自信が滲み出て、余人の目にその覇気が見えるのであろう。
自綱は信長に対し、答礼として持参した栗毛馬を献上した。
自綱が本拠を構える飛騨はなにしろ、曾て朝廷に、飛ぶように走る駿馬、斐太の大黒を献上した国柄である。その子孫たる栗毛馬は信長をことさら感激させたと伝えられている。
自綱は、前回の上洛の際にそうしたように、今回も山科言継と挨拶を交わした。自綱はその際、宣綱の元服を来年に控えていると前置きした上で
「公家元服の作法具書を所望します」
と伝えると、言継は
「よろしい。準備しとこ。せやけど公家の元服の作法には口伝のことも多いよってに、また改めて人を寄越しなはれ。口伝の作法はそのときにでも伝えまひょ」
と、言外にさらなる礼銭を求めたあたりは、ことあるごとに小遣い稼ぎを目論む公家の面目躍如といったところで、自綱を苦笑いさせた。
その点、前回の上洛から大きく様相を異にしていたのは、こういった公家連中の間では、もはや足利義昭は過去の人であり、今や京畿は織田信長によって静謐が保たれていると認識されている点であった。
自綱が初めて上洛したとき、諸大名にその号令を下した実質の命令権者は織田信長であったが、それは飽くまで「天下諸侍の御主」たる足利義昭の権威を発揚する形で発せられたものであった。信長は足利将軍の権威を超える存在とは考えられていなかった。
それが今はどうだ。
五年前に織田信長を父とも敬い、相思相愛の間柄とさえ思われた足利義昭は織田信長と敵対したことによって京畿を逐われ、いまやその信長が天下人として朝廷に認められている状況であった。
このころ既に在京七年を閲し、この間信長が京畿の経営に投じた財は莫大な額に登っていた。信長としても、その経営から引くに引けない状況に立ち至っていたのである。もし京都から安直に手を引けば、信長は
「これまでの投資を無駄にした当主」
として家中における求心力を喪失し、領国の維持すら困難になっていたかもしれない。
信長が在京する名目を失わせる、という意味では義昭の不在京戦術は一応の効果があった。信長は在京の大義名分を取り戻すべく再三にわたって義昭に帰洛を懇請したが、義昭側から織田家に人質を出す出さないで交渉がこじれた結果、今日に至るまで義昭の帰洛は果たされていない。
このように義昭が京都からいなくなったことで、在京の大義名分を一時喪失したかのように見えた信長であったが、出資を惜しまず朝廷を庇護することにより、自らの手でその名目を勝ち取ったのである。
自綱は公家との会談を重ねる中で、
(やはり信長との連携は間違いではなかった)
という認識を新たにした。
信長との連携を批判した鍋山左衛門佐の如きは、やはり井の中の蛙に過ぎない存在だったのだ。
自綱は自らが推進してきた親信長の外交方針に、一層の自信を深めた。
自綱は朝廷に差し出した礼銭や信長に献上した栗毛馬の価値にまさる情報と、嫡子宣綱への姉小路古川の名跡継承という栄典の確約を得て、飛騨へと帰還したのであった。




