自綱上洛(三)
兎も角も、父良頼と比較され、面と向かって外交方針を批判された自綱は、それまで青かった顔を途端に真っ赤に染めながら激昂し、
「馬鹿を申すな左衛門佐。思うに汝は武田家の侵略に相対する鍋山に在城するがゆえに、その武田に恐れをなしていうのであろう。また三木家に列する家柄でありながら庶子ゆえに姉小路古川の名跡を名乗れぬ鬱憤も重なって、信長公を悪し様に言うのであろう。
惰弱大いに嗤うべし。侍の風上にも置けぬ。即刻腹を切れ!」
と大喝した。
先述したとおり、信長に請われたとはいえ郡上に派兵したことを自綱は秘かに後悔していた。左衛門佐の諌言は、その自綱の後悔を更にえぐるものであった。図星を指摘され、理屈で反論できなくなった自綱は、その口を封じるため左衛門佐に切腹を命じる非常手段に訴えたのである。特に左衛門佐が姉小路古川の名跡を名乗れない云々は附会というよりほかなく、左衛門佐の諌言に関係のない理屈であった。
とても正当な理由に基づく切腹の沙汰とはいえない。
しかし自綱に命じられた供廻りは、広間に雪崩れ込んで左衛門佐を容赦なく引っ立てる。
「一族郎党の忠言に耳を傾け賜わず、あまつさえ切腹を命じられるなど狂気の沙汰! 御再考あるべし! 御再考を!」
左衛門佐は叫んだ。
左衛門佐の血筋はといえば、祖父はあの和州公直頼が最も信頼した次弟、新左衛門尉直弘であり、父は鍋山豊後守顯綱に放逐されたとはいえその直弘の子、監物であった。即ち三木家と深いつながりを有する家柄であり、その血筋を指して
「一族郎党の忠言」
としたものであるが、自綱はその言葉を逆手にとって
「祖父和州公直頼は曾て余に、三木家に内訌の歴史はなく一族が手を携えてきたからこそ栄えてきたのだと遺言された。貴様の言は、その一族の和を乱すものである。叛逆者は我が三木一族に不要だ」
とこたえた。
一族の忠言とは言い条、左衛門佐は鍋山家の発言力低下を憂えて諌言に及んだものであり、自綱は自綱で、三木一族に内訌の歴史はないからと言って、異見を唱える一族を排除しようというのである。
この場に繰り広げられている狂態こそ内訌そのものであった。
哀れ鍋山左衛門佐は、桜洞城において切腹を強要され相果てたのであった。天正二年(一五七四)八月十日のことと伝えられている。
さて三木一族の内訌云々に言及したここらあたりで、一族間の内訌により弱体化した姉小路三家について触れておかねばなるまい。
先代良頼が度重なる謀略と猟官運動の末に姉小路古川の名跡を継承した経緯は前章に述べたとおりである。これより以前、古川家は実質的には小鳥口で滅亡しており、その名跡を一時的に継承したのは小島時秀の末子済堯であった。良頼はその済堯に言いがかりを付けるような形で殺害し、古川名跡をいったん空席にした上でこれを継承したのであった。
向家は向貞熙病没(永禄六年、一五六三)後の動静が不明確で、「飛騨略記」によれば、貞熙没後、その子右近は幼少であったため家老牛丸蔵人親吉がこれを後見していたところ、牛丸が俄に野心を発し、右近を殺害して取って代わらんとしたが、後藤帯刀がこの野心を察知して幼い右近を連れて越中に落ち延びたと記されている。「飛州軍乱記」では右近の動向は知れず、ただ単に小鷹利城が自綱によって攻撃され、牛丸又右衛門ほか、「飛騨略記」では牛丸蔵人に殺されたことになっている後藤帯刀と共に越中へと落ち延びる道中、角川で追っ手に追いつかれ殺害されたことになっているなど情報は錯綜している。
ただ、向家家宰牛丸家とのつながりを連想させる「牛丸備前守」という人物が越中在番に服していることは上杉関係史料によって明らかであり、姉小路向家が没落したあと、牛丸備前守は三木家の統制に従う存在となって、越中在番に従事していたのではないかと考えられる。或いは謙信による越中国替え構想に接した三木家により、スケープゴートとして差し出されたのが牛丸備前守だったのかもしれない。
なお伝承では向右近大夫は家宰牛丸重親によって飛騨を追放されたあと、常陸の佐竹義昭に出仕して向宣政を名乗ったとも伝えられているが、いずれにしても向家がこの頃の飛騨で、影響力を全く喪失していたことだけは確かである。
古川が三木家による乗っ取りの憂き目に遭い、向家が飛騨に地歩を失って、三家のうち、実に二家が滅んでなくなってからも、小島家は三木家の協力者として辛うじて存続している存在であった。
これには自綱の血筋戦略が影響していたと思われる。




