自綱上洛(二)
さてここで説明しておきたいことがある。
大名間で締結される外交関係と、それに伴う取次の発言力についてである。
現代でもそうだが、国家間で交渉ごとを行うような場合、国のトップ同士がいきなり顔を合わせて話し合うということはあり得ない。まずは事務局同士が接触し、交渉を重ね、路線が定まってからトップが会談するというのが定石である。交渉が事務局レベルでこじれたら、トップ会談は当然のことながら行われることはない。
つまり実質的な交渉は事務局に始まり事務局に終わるといっても過言ではないわけで、事務方の発言力が如何に重大なものであるか、この一事でも知り得よう。
現代日本に置き換えて考えれば、現在我が国は日米安全保障条約という軍事同盟をアメリカ合衆国と締結しており、これは我が国が他国と締結する唯一の軍事同盟であるから、対米関係が我が国の基軸の国際関係であることは論を俟たない。即ち米国との交渉を担う窓口こそ我が国政府における米国の代弁者というわけである。
我が国は米国以外の国と広く友好関係を築いているが、それは名目上のものに止まり、実質を伴わない関係も実のところ多い。
例えばそういった国と米国との間で利害関係が相反した場合、我が国の政策決定により重大な影響を与えるのはどちらの国の担当者の意見だろうか。考えるまでもなくこたえは明白である。
米国との交渉連絡を担当する部署の発言力が大きくなるのは当然の話なのである。
戦国大名の場合も同じだ。
ある大名にとって同盟相手が重要であればあるほど、その大名との取次を担う者の発言力は家中において重みを持つ。
三木家でみた場合、上杉との取次を担う者は塩屋筑前守秋貞である。塩屋は三木家中における上杉の代弁者という立場である。そして三木家中において上杉との同盟が重要であると認識されている間、当然のその上杉との取次を担う塩屋筑前の発言力が大きくなる。塩屋筑前の意見は上杉家の意見と見做されるからだ。
それでは三木家と武田家との関係で考えた場合はどうか。
いうまでもなく三木家は一貫して反武田であった。
しかし三木家が独力で武田に太刀打ちできないことは明らかであり、かつ上杉も織田も軍事同盟という点では全面的に信用できない情勢下、三木家としては武田家を刺激しない程度に上杉家や織田家と連携し、かつ武田家とも連絡窓口を設ける、というのが既定路線だったようである。
そして前掲の信玄勝頼連署状が鍋山豊後守に宛てて届けられている以上、武田家との取次を担ったのが鍋山家だったのだろう。地理的にみても、信飛国境の長峰峠を飛騨方面に抜けてまず最初に当たる要衝が鍋山城であった。これらの要因から、鍋山豊後守は、武田との取次を担っていたものであり、そのことによって三木家中における発言力を保っていたものと考えられる。
しかしながら武田家と連携する郡上の遠藤を自綱が攻撃した行為は即ち、武田とのつながりを三木家が自らぶち壊したのと同義であった。
このことは武田家との取次を担ってきた鍋山家の人々にとって、
「自綱が新たに模索し始めた親信長方針によって武田との対話が途絶し、家中での発言力が低下した」
と受け止められたはずである。
また、かかる新たな外交関係は、それまでほとんど上杉一本槍だった三木家の外交関係の転換を意味するもので、上杉との取次を担う塩屋筑前の発言力を相対的に低下させたものと考えられる。均衡が崩れるとはまさにこのことだ。
無論自綱とて伊達や酔狂で信長との連携を深めたわけでは決してない。歴史の趨勢を鑑みれば、その選択は決して誤りとはいえないものであった。
しかし家中衆からしてみれば、良頼の代までは安定していた自分の立場が、代替わりを境にして不安定化したのだから、自綱に対して不満を抱くのも無理からぬ話だったのである。多くの戦国大名が代替わりのたびごとに内訌を繰り返したのは、概ねこういった事情による。




