自綱上洛(一)
恐れていた事態が発生した。諸人上を下への大騒ぎである。先代良頼治世の晩年、東濃苗木遠山氏の苗木勘太郎が大威徳寺に押し寄せてきたときとは比べものにならないほどの衝撃であった。
しかしそれも無理のない話である。
「来春雪が解ければ必ず出馬する」
という武田家からの予告が実行に移されるのではないか。
諸人自ずとそのことを想起したからであった。
新たに武田の家督を継承した四郎勝頼が、甲信の軍役衆六千を自ら引率し、東濃岩村城を拠点にして織田領内へと押し寄せてきたのだ。この攻勢により、天正二年(一五七四)二月までに串原、今見、飯狭間、馬籠、明知、神篦といった織田方の東濃十八支城が続々陥落したのである。
これに対し信長は、自ら後詰すべく三万の大軍を率いて出馬したが、勝頼の盤石の布陣を前に安易に攻め寄せることが出来ず撤退。肥田城や小里城といった城を普請して監視の将を籠める以外に打つ手がなかったという。
それまで対外的にあまり名が知られていなかった武田勝頼はこの戦いで大いに武名を挙げ、それまで勝頼に対し
「例式四郎経略名之下に候(いつもながら勝頼の武略はその名に劣る)」
と酷評していた上杉謙信でさえ、勝頼の捷報に接して織田信長に対し
「五畿内の守りを疎かにしてでも勝頼に備えなければ危うい」
と警句を発するほど、その評価を一変させている。
信長自らが後詰の兵を率いて出馬したにもかかわらず勝頼に手出しが出来なかったこと、そして勝頼の席捲を許したことで、飛騨国内には動揺が走った。
「あの信長公ですら勝てなかった男」
「信玄死すといえども武田やはり恐るべし」
人々は口にこそ出さなかったが、その念を新たにしたのであった。
このとき既に従来の北進策を放棄して久しく、織田徳川と新たに戦端を開いて東海道西進策に転じていた武田が今更飛騨の如き下々《げげ》の国に進出する謂われもなかったのだが、そのような大国の思惑など飛騨の人々は知らない。
目の前を怒濤のように流れる武田という名の奔流。
あらゆる地物をなぎ倒して吹き荒れる武田という名の台風。
飛騨の人々にとって武田はやはり、抗いがたい自然災害と何ら変わりがない存在なのであった。
そして当代自綱の目には、人々の動揺が手に取るように分かる。彼自身が間近に迫った武田の威力の前に戦慄していたのだから当然だ。あの信長でさえ勝頼に手出しできず撤退を余儀なくされたことで、自綱は言葉にこそ出さなかったが昨年強行した郡上出兵を後悔し始めていた。
そんなところへ敢然、自綱の親信長方針に異を唱える者が出現した。
鍋山城に在城して豊後守顕綱を補佐していた鍋山左衛門佐である。先に鍋山豊後守が放逐した鍋山監物の実子であった。
左衛門佐は武田方の東濃席捲という凶報に接して、取るものも取りあえず当時自綱が在城していた桜洞城に登城した。
左衛門佐はこう諫言した。
「この際はっきり申し上げますが、信長公に請われたとはいえ昨年郡上に出兵したのは誤りでした。我等三木家はこれまで武田と相対するため謙信公と手を携えてきた間柄。謙信公であればかかる武田の劫掠に対しても的確に手を打ち対処なされたでしょう。そのことは永禄七年(一五六四)のいくさでも明らかでございます。
翻って信長公はといえば武田方に手出しも出来ず城を築いて監視の兵を置くのがやっとの御様子。
この一事とって見ても、謙信公と信長公、いずれが恃みになるか、もはや考えるまでもございますまい」
左衛門佐は、永禄七年に武田家重臣飯冨三郎兵衛尉(山県昌景)が江馬家領荒城郡に侵攻してきた際、謙信が北信に出馬して牽制を加え、飯冨の兵を撤退に追い込んだ事例を挙げて言った。
しかしこの左衛門佐の諫言には将来への展望という要素が欠けている。
確かに自綱は郡上出兵によって信長と三木家との友誼を深化させることに成功したが、同時にそれは武田家を怒らせるという副作用を伴うものであった。
左衛門佐の諫言はその副作用だけを殊更に詰ったもので、主たる作用である
「織田家との同盟の深化による将来の三木家の安全保障」
という部分には触れていない。
自綱はそのことを指して
「信長公は天下人である。時の天下人に与することの何が不満か。それに信長公は当家をして姉小路古川の正統と認められたお方だ。その要請に従って逆徒武田に与した両遠藤を討つのは当然のことではないか」
と反論したが、左衛門佐は
「今は姉小路古川の名跡の話をしているのではござらん。それに、その信長公の命令に安易に従って、このような事態を招来したのです。それがしが申しているのはそのことです」
と返して全く怯む様子がない。
両者とも己の信じるところを互いにぶつけ合うだけであり、結論を見出せる議論とは言い難い。
なおも口を閉じない左衛門佐に対して自綱は青ざめながら
「それでは今から信長公との友誼を排すべしと申すか」
と言うと、左衛門佐は
「そうなさるべきでしょう。御先代(良頼)は必要以上に信長公と交わることはござらなんだ」
と言ってのけたのである。




