古川没落(一)
済継死後、渡部筑前の打倒小島時秀にかける野望も潰え、飛騨在国の古川家中衆にとってはいまや御曹司済俊の存在こそ心の支えであった。
その古川家中衆は
「御曹司が元服なさるまでは」
を合言葉に、飛騨の古川家領を今日まで維持してきたのである。
済俊は済俊で、そういった在国の家人を慮り、その労苦に報いるべくたびたび飛騨に下向しては酒宴を催したそうである。飛騨にも美味い地酒はあっただろうが、若い主人が自分達を気遣って京から運んできた酒は、古川家人にとって格別の美酒だったことだろう。
大永七年(一五二七)夏、若い当主古川済俊を上座に拝し、古川城大広間に会する古川の家中衆は感涙にむせんでいた。当主の飛騨下向自体はこれまでも何度かあったが、今回はそれまでの下向とは少し趣が異なる。
「よくぞ今日まで家領を維持してくれた。感謝に堪えぬ」
済俊からこの言葉を下賜された渡部筑前は、ただただ深く伏すばかりで顔を上げることが出来ない。顔に腕を押し当てて、男泣きの咆哮を必死に堪えているのだ。筑前のこれまでの苦労を知る他の家中衆も同様である。
これまで順調に叙位任官を遂げてきた済俊であったが、依然幼年であり、古川後継を既定路線と衆目も一致していたが、あとは本人が当主たるに相応しい年齢に達することのみ待たれる状況であった。その済俊も今年で生年二十二になる。済継の後継者として起つに相応しい年齢に達したのだ。
いま、古川の人々の雌伏の日々がまさに報われようとしていた。
古川済俊の飛騨下向に際して、三木右兵衛尉直頼をはじめ江馬左馬助時経、白川郷の内ヶ島上野介雅氏からは祝賀の使者が来訪し、その行列は基綱卿以来の名家、古川再興を強く印象づけるものであった。
さてここに、白川郷内ヶ島氏という一氏族の名を挙げた。これは飛騨国内に勢力を張る氏族であり、幕府奉公衆に名を連ねる名家である。武勇に優れていることはもちろん、将軍家への抜きん出た忠誠心が求められる足利将軍家親衛隊こそ幕府奉公衆であった。したがって「飛州志」所収の内ヶ島系図が、その祖を楠木正成の弟和田七郎正氏としているのは事実ではなかろう。南朝方として足利尊氏と激しく争った楠木正成に連なる氏族を、如何な武勇に秀でているとはいえ将軍直轄の幕府奉公衆に加えるとは考えづらいからである。
長享元年(一四八七)、時の将軍九代義尚は、公家や寺社領に対する横領を繰り返していた近江六角高頼討伐を掲げ、各国の守護大名や奉公衆を引率して近江国粟太郡に着陣している。所謂「鈎の陣」である。
この将軍親征に際して付けられた着到状は現存しており(長享元年九月十二日常徳院殿様江州御動座当時在陣衆着到)、その一番衆のなかに「内島又五郎」の名が確認できる。内ヶ島氏の幕府奉公衆としての活動の、これが初見である。
内ヶ島氏が土着した白川郷は飛騨国大野郡に属する郷村であるが、標高一五〇〇メートル級の飛騨山地に阻まれ、飛騨国中との往来は容易ではなかった。近年まで飛騨市、白川村間は飛騨山地を避けて南から大きく迂回するルートを使用しなければならなかったことが、この時代の白川郷の独自性を物語っている。往来が比較的容易になったのは、平成十九年(二〇〇七)に全長一〇七一二メートル(この長さも、山手トンネル、関越トンネルに次ぐ国内第三位)の東海北陸自動車道飛騨トンネルが開通してからのことである。
かかる山間にあっては耕作可能な土地も寡少であり、痩せ地といって良かった白川郷に、幕府は何故奉公衆を配したのだろうか。
実は江戸期即ち近世以降、白川郷を中心に岩瀬、横谷、天生、森茂、片野、六厩、上滝、落部といった金山群が多数発見されている。史料上は近世以降の鉱山資料しか残されていないが、それ以前に全く未開であったとも考えられず、当時これらの山々から既にいくらかの鉱物資源が採掘されていたのではなかろうか。室町幕府はその運上金を効率良く得るために、奉公衆内ヶ島氏をこの地に配したのだと考える史家も多く、近世におけるこれら鉱山の隆盛を見れば、全くの虚説とはいえない。
余談が過ぎたが、このように独自性を保っていた内ヶ島氏をはじめとする国内諸衆が古川済俊の許に祝賀の品々を持参し、門前市を成すが如き古川城の光景に危機感を抱く人物が一人あった。
いうまでもなく小島時秀その人である。