反撃の狼煙(六)
「木曾谷は静寂そのもの、人が少ないことに由来する静寂かとも思いましたが、甲斐府中八日町でも向後三箇月は楽曲や酒の類いは禁じられておりました。また武田分国の関所という関所で長蛇の列が作られ、通過しようとする行旅人の氏名や居所といった基本的な情報から、親類縁者の氏名居所まで尋ねられるほどでした。それがしなど訛も知らぬのに越中の出であるなどと嘘を言って、却って越中出身の武田の侍に見破られそうになるほどだったのですから」
三平が失敗談を交えながら言うと、塩屋筑前と監物が口角を上げる。
しかし三平は冗談を早々に打ち切り、真顔に戻って続けた。
「更に躑躅ヶ崎館の門前に宿を借り、術策を弄して酔わせた武田の番兵から聞いたところによると、上洛の一行が帰還して間もなく、第内から読経の声が聞こえてきたというようなことがあったそうです」
三平からの復命を聞いて、瞑目したまま考え込む塩屋筑前。情報の一つひとつを頭の中で反芻しているかのようである。
三平が言った。
「一つひとつは確かに決定的とは言いがたい情報です。しかしこれらの出来事を実際に見聞きしたそれがしは、これらの情報を総合して信玄の死を真説と考えます」
武田信玄の葬儀は、その死を三年間秘すべしとした遺言に従って、従来天正四年(一五七六)四月十六日に執行されたものとされてきた。しかし「天正玄公仏事法語」「快川和尚法語」には、甲府の法泉寺侍従雪岑光巴が「恵林寺殿卒塔婆銘」を唱えたとあり、躑躅ヶ崎館内で信玄の葬儀が密かに執行された形跡が認められるという(平山優氏著「武田氏滅亡」百二十一頁)。
秘喪の必要から大々的に執行されることこそなかったが、死者の霊魂を弔わないというわけにもいかず、やむを得ず密かに信玄の葬儀を執行したのであろう。
喪に服することを求められているかのような武田領国内の様子、躑躅ヶ崎館番兵が聞いたという読経、そして他国からの侵入者を恐れるが如き関所での厳しい穿鑿。
確かに一つひとつは決定的とは言いがたかったが、その中心部分に
「信玄の死」
という事象を置くと、途端に全てが線で繋がったようにも感じる塩屋筑前である。
「ご苦労であった三平。帰って休むがよい」
塩屋筑前は我が子に労いの言葉をかけると、今度は監物に向き直って言った。
「わしは三平の話をそのまま御実城様(上杉謙信)に言上しようと思う。いまの三平の話だけでは虚実見極めかねるところではあるが、それは我等が凡才であるがゆえ。御実城様であればきっと虚実過たず見抜かれるであろう」




