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飛州三木家興亡録  作者: pip-erekiban
第三章 三木自綱の野望
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反撃の狼煙(五)

 三平の一行は甲斐府中八日町に至った。武田領国で最も栄えた繁華街である。ひと息吐こうと立ち寄った酒場にはしかし、酒の類いが一つとして並べられてはいなかった。店の親父に聞けば、これより三箇月は楽曲や酒の類いはまかり成らぬとお達しがあったというのである。まるで大身のお侍か偉いお坊様が死んだみたいだが、わしらにはなんにも知らされちゃいねえと親父は付け加えた。


 どうやら木曾谷が静寂に包まれていたことと無関係ではなさそうである。


 確かに木曾谷の静寂には、他から強制されているような不自然さがあった。あったが木曾谷自体が元々静かな場所だったので、喪に服することを強制されているという確信を抱かせるものではなかった。しかし繁華街である八日町の静寂は、これが武田首脳部から強制されていることを強く推測させるものであった。


「酒の提供をめてどれくらい経つ」

 三平が訊ねると親父は

「もう二十日ほどにもなります」

 とこたえた。

「求める者も多かろう」

「そりゃあもう」

「買った」

「ですから酒は禁止だと……」

 親父は困惑しながらこたえた。

 三平は言った。

「安心してくれ親父。なにもわし等はここで買った酒を飲もうというのではない。他へ贈答する土産として買うのだ。それによしんば我等が飲酒した上で騒ぎを起こしたからとて、土産にすると聞いて酒を売った店の親父が詮議を受ける謂われなどなかろうて」

 三平はそう言って再三親父に酒を求め、結局渋る親父から相場の三倍の値でようやく二升、買い取ることが出来たのであった。

 三平の一行はそれから、武田氏の居館、躑躅ヶ崎館つつじがさきやかたにほど近い一角に宿を借りた。

 

 俗に甲斐府中とはいうものの、政庁躑躅ヶ崎館近辺は官庁街のようなお行儀の良さを湛える場所である。その意味では三平のような行商の一行が宿を借りるには不自然な場所であった。

 三平はその宿の一室に籠もって日がな一日窓の外を眺めながら、躑躅ヶ崎館の大手に立つ在番衆の顔を覚えた。

 大手門前に立つ在番衆は、躑躅ヶ崎館内に自宅を持っているわけではなく、武田の領内に本貫地を持ち、そこから躑躅ヶ崎館に出仕している侍衆である。つまり在番を終えれば自宅に帰ることが許されるのであって、三平はそうやって任を一旦解かれて帰宅しようという侍から情報を聞き出そうとしたのである。

 

 ある晩のことであった。

 三平は千鳥足で躑躅ヶ崎館近辺をうろついていた。三平は酔ったふりをしたのではなく、八日町の酒場の親父から買った酒をいくらか飲み、本当に酔って躑躅ヶ崎館の近辺をうろついたのであった。

 三平はしかし、人の顔を見誤るほどには酔っ払ってはいなかった。千鳥足も演技であった。飲酒量は、吐息が酒臭くなる程度にとどめられた。

 三平は、日頃具足姿で門前に立っていた番兵が、平服で城下を歩いているのを見つけると、敢えてこれに肩をぶつけた。

 無論偶然出会したものではない。三平はこの番兵が帰宅する際に通る道をあらかじめ知って待ち伏せていたのである。宿の一室に閉じ籠もったのはこの番兵の帰路を観察するためであった。

 

 下賤の者に肩をぶつけられた侍は怒った。

 見ればぶつかって来た相手は当面禁じられている酒を飲んでいる様子である。

「貴様、飲酒が禁じられていることを知った上での狼藉か」

 侍が一喝すると、三平はその場にひれ伏して

「なんと。知らぬこととは申せ先程来の御無礼、どうか御容赦下さい」

 と平謝りに謝ったあと、

「私どもは越中より越した行商の一行。せめてものお詫びに一杯いかがでしょうか」

 と、こともあろうに禁じられている酒を勧める三平。

 愚弄されたととらえて更に激昂する侍もあろうというものだったが、それなど勤めが前提のことであり、在番を終えて帰宅しようという道中、本来であれば勤めの憂さを晴らすために城下に繰り出して飲んだであろう酒も提供が禁じられているこの時節、侍は

「いや、そんな。だから酒は……。いかんいかん」

 と、途端に歯切れが悪くなった。

 すかさず畳みかける三平。

「直ぐ近くに宿を借りております。そこでならば心おきなく飲めるでしょう」

 そうまで言うと話は早かった。侍は三平に誘われるまま宿に入り、三平に勧められるまま、これでもかと言わんばかりに痛飲する。

 侍がしたたか酔っ払ったころを見計らって三平が訊ねた。

「時に先ほど、飲酒が禁じられていると仰せでしたが、何かあったのですか」

 侍は顔を真っ赤に染めながら

「それがしの如きは何も知らされてはおらん。ただ、上洛の御一行が御帰還召されてすぐ、第内ていないから読経が聞こえてきたというようなことはあった。御親類衆の誰かが亡くなったものかと皆くちぐちに噂し合ったが、もとよりそのような奥向きのことを知らされる我等でもない」

 と、呂律の回らぬ口調でこたえるのみであった。

 三平はその情報で満足しなければならなかった。路銀や酒を利用して武田家中の者から情報を得るのは、このあたりが限界と思われたためであった。これ以上の情報を得ようと思えばそれこそ譜代衆あたりにまで手を伸ばさねばならないだろうが、さすがに武田の譜代衆が行商の一行如きに酒や賄賂で買われるはずがない。

 三平が酒臭い息を吐くために飲んだ以外の酒を侍は全て飲み干して、いまは大いびきをかきながら眠っていた。宿代には到底足りないが、三平一行は少しの路銀を残して早々に甲府を立ち去った。

 翌朝目を覚ました侍は、ほんの挨拶程度に残された少しの銭に、自腹の銭を加えてようやく宿を出ることを許された。侍は自分が飲み干した酒代にしては割高だと悔やんだが、酒が禁じられているなか、人知れず飲酒できたそのことで、自分自身を満足させるより他なかった。

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