反撃の狼煙(二)
ここで時計の針を戻そう。良頼存命のころである。
三木三郎左衛門尉が苗木勘太郎を撃退し、自領の安全を見届けた自綱は、父良頼の名代として元亀三年(一五七二)十月上旬、越中に出陣した。これはかねてより謙信から求められていた越中在番の軍役であり、このころは三木家中からは塩屋筑前が、そして江馬家からは当主輝盛がその任に当たっていた。
このころの江馬家の立場は一貫しない。
北に上杉、東に武田という両大国に挟まれ、南に親上杉の三木家を置く立場上、上杉寄りになるのは致し方ないところではあったが、江馬家が拠る荒城郡は過去に二度、武田の劫掠に遭った地でもあり、全面的に上杉に与していたわけでもなさそうなのである。そのことは、江馬輝盛が武田信玄に対し具足を所望したことでも知られている。このころ江馬輝盛は、自領の存廃をかけて上杉武田両家を相手取るに二重外交を展開していたのである。
その輝盛の元に、東濃の苗木氏勘太郎が大威徳寺に押し寄せてきた、という報せが入った。三木勢が奮闘して苗木勢を撃退したようであったが、それにしても苗木勢の攻勢は、過去に武田の侵略を受けたことがあるだけに、殊更江馬を不安に陥れた。
輝盛はこれを機に良頼と飛騨の情勢を巡って会見することを望んだ。武田の再侵あり得るや否やを確かめようとしたのである。
さっそく三木陣中に会見を申し入れると、自綱より返事があった。
「父は病身ゆえに在国しており自綱がお相手することになるが、是非ともそうしたい」
というものであった。
輝盛は驚愕した。良頼が自ら越中に出向いていたものと思っていたからであった。
それがどうだ。
病気を理由に自綱を差し越したのみで、自身は飛騨に在国しているというではないか。
輝盛は憤懣を隠さなかった。
「武田の攻勢があって飛騨の諸侍皆押し並べて自領に不安を抱える中、三木家の命に従いかかる軍役に従事しているというのに、その三木家当主が在国とは理解しがたい。思うに自領の安全に自信が持てぬということであろう。そうと分かれば会談など不要。自領が危うい。陣払いの準備をせよ」
輝盛は人々にそう呼ばわると、本当に越中の陣を引き払って高原に帰還してしまった。
もしも輝盛がこのころの良頼と面会する機会があったなら、既に死病に取り憑かれて余命幾許もなかった良頼が、真に越中在番に堪えられないことなど一目瞭然であったろうが、武田の再攻勢を恐れる輝盛には病身の良頼を慮る余裕がない。三木家の当主が在国していると聞いて、却って自領の安全に不安を覚える始末であった。
そして輝盛の突然の帰陣は、同じく越中在番に従事していた越後諸将に疑念を抱かせた。
越後の諸将は口を揃えて
「けしからんやつだ」
と輝盛をけなしたが、輝盛が高原に帰還したのは三木家の対応が気に入らなかったことが理由であって、上杉家との関係を悪化させるのが目的ではない。、
どうやら輝盛は突然の帰国について、謙信に釈明したらしいのである。そのことは、「神岡町史史料編」所収「上杉謙信書状」でも明らかである。
内々自是可申遣処、従輝盛預音信大慶候、随而輝盛帰国為知候は、外見に候間、送をも可申付処、不時ニ帰路候、於世間悪様に可申唱事、笑止々々、乍去於愚老不懸気候間(中略)
十月十四日 謙信(花押)
河上河内殿
(こちらから使者を遣るべきところ、輝盛から音信があり大変良いことである。もし輝盛が帰国することを知っていたら、外見のこともあるので誰かに見送らせただろうに、不意に帰国してしまい、世間は悪し様に言っている。笑止である。私は全く気にしていない)
一見、離陣した輝盛を却って謙信が気遣っているような内容に見えるが、まず冒頭に「そちらから先に釈明するとは良い心掛けだ」と一発軽く入れておいて、更に「もし帰国することを知っていたら誰かに見送らせただろうに」としているあたりは、
「二度と同じことをするな」
と言外に恫喝を加えているのであって、全体的に行間に凄味を利かせた書状である。
そしてこの書状の日付から約一箇月後の十一月十二日、良頼は没した。
今度は自綱が輝盛に鬱憤を抱く番であった。
越中在番の任は、三木家が取次として飛騨の諸将に伝達している任務であった。輝盛が無断で帰国した行為は、その三木家の面目を潰す行為であった。要するに三木家に対する当てつけに他ならぬ行為であり、輝盛自身、そのことを意識して離陣に及んだのである。
将来の大戦の種とは、えてしてこういった行き違いから蒔かれていくものだ。
兎も角も、先へ進もう。




