大威徳寺の戦い(七)
大威徳寺に押し寄せた苗木勘太郎を毒矢によって傷つけ撃退した一事は、良頼にとっては快事であった。しかしかかる快事を以てしても、良頼の憤怒は解けなかった。
良頼にとっての年来の敵、飛騨三木家にことあるごとに恫喝を加え、圧迫してきたあの憎っくき武田信玄が、大威徳寺における苗木勢の攻勢頓挫などものともせず、それどころか大軍を引率して上洛作戦を決行したからである。その率いる精強の兵五万と号し、信遠国境青崩峠を越えて徳川領遠江に雪崩れ込んだというのである。このため北遠江の諸将は一斉に武田に靡き、先年来武田と敵対してきた徳川があっと言う間に滅亡の淵に立たされるほどの苦境に陥っているというのである。
翻ってこの武田信玄の背後を衝くべき謙信はというと、越中一向一揆勢の蠢動を前に釘付けの憂き目に遭って動くに動けないでいた。そもそも三木家は年来一向宗門徒とのつながりが強い人々であったから、越中に在番しているといっても戦意に乏しく、そのことも一揆蠢動に拍車をかけていた。要するに三木家が謙信の足を引っ張るので、上杉の越中経営が遅滞して、武田が上洛の途に就くことが出来た、という事情もあったのである。
位階にして従五位下、官職にして大膳大夫に過ぎぬ甲斐の武田信玄如きが、大軍を率いて上洛するというそれだけでも不愉快であるというのに、頼みの上杉謙信が信玄牽制の軍を動かすことが出来ないでいるという事態も、良頼にとっては許すべからざることであった。
しかしその怒りは筋違いというべきものである。
もし良頼が、謙信に信玄の背後を衝いて欲しいと真に願うなら、越中在番の飛騨衆に対し、一向一揆勢と積極的に戦うように命じ、越中の上杉勢を扶ければ良いだけの話であった。
それをしなかったのは飛騨勢の懈怠というより他なく、その懈怠命令は他ならぬ良頼自身から出されていたのである。つまり良頼は自らの懈怠を棚に上げて、それでもなお謙信が信玄の背後をつかぬ事に鬱憤を募らせていたかっこうだ。
信玄上洛に至る自らの過失が理屈の上では理解できているだけに、余計に腹が立つのである。人の業とは押し並べてそういったところにあるといって良い。
遅ればせながらそのことに気付いたか、良頼は上杉からの越中在番要請に対して真摯に向き合うことを決し、十月上旬、名代として自綱を越中に派遣している。
兎も角も、南方の防衛拠点大威徳寺がことごとく灰燼に帰したいま、再度武田の侵攻を受ければ飛騨の滅亡は間違いないところであった。
武田を地震や台風などといった、凡そ人知の及ばぬ災害と同一視し、あまつさえ忍び寄る死の影に正常な思考能力を奪われつつあった良頼には、信玄が曾ての同盟相手織田信長と無二の一戦を企図していることが理解できない。
日本全国の目が武田信玄の動向に注がれている最中の元亀三年(一五七二)十月、凶報が入った。
織田信長に接収され、この度の甲尾決裂の一因ともなった東濃岩村城が、伊那郡司穐山伯耆守虎繁の重囲に陥ったというのである。
岩村城の陥落は、穐山虎繁という新たな敵が南方に出現することを意味していた。苗木遠山氏の如き一地方豪族ではなく、信玄直属の部将が目と鼻の先に出現することになるのである。
そして歴戦の軍役衆を恃む穐山虎繁が、幾許も経ず岩村城を陥落させることはいまから明らかであった。
そのことを理解できない良頼ではなく、彼は病臥したまま
「もう駄目だ!」
と叫んで大量に吐血したあとは、その身を起こすことが二度となかった。
それからの一箇月は良頼にとって地獄のような苦しみの日々であった。憤怒と絶望と病の痛みに身悶えしながら、良頼は死んだ。
* * *
三木良頼の没年は史料によりばらばらで、「斐太後風土記」は天正七年(一五七九)三月二十三日としているし、「飛騨遺乗合府」によると弘治二年(一五五六)八月二十五日という。
「公卿補任」には
前参議従三位藤嗣頼、在国、十一月十二日卒
とあって、元亀三年(一五七二)十一月十二日死没が明らかとなっている。
良頼がなにより恐れた岩村城陥落はその二日後、十一月十四日のことであった。
三木良頼は三木家が重大な局面を迎えているその最中に病没したのであった。
第二章「三木良頼の謀略」 (完)




