大威徳寺の戦い(五)
「和睦交渉の席に苗木勘太郎はいましたか」
三郎左衛門尉は和睦交渉を終えて帰陣した兄鍋山豊後守顕綱にそう訊ねた。和睦交渉に着座した敵方の将は苗木勘太郎ではなく、ましてや苗木一族ですらない木曾家家老山村三郎左衛門尉良利であった。
豊後守顕綱よりそのことを伝え聞いた三郎左衛門尉は
「そうですか……」
と残念そうに呻いたきり二の句を継がなかった。
敵の攻勢が最高潮にあったとき、大威徳寺に残されていたのは一堂のみであった。主立った他の堂宇はことごとく焼尽し、残った一堂に籠もるは籠城の兵百名足らずという絶体絶命の危機であった。
この、柳の枝よりも頼りない大威徳寺の防衛線を突破することは苗木勢にとって容易なことのように思われた。そうすれば和睦交渉などというまどろっこしいものに訴えずとも、竹原郷、否、益田郡全域ですらその掌中に収めることは、苗木勢にとって赤子の手を捻るより容易いはずであった。
にもかかわらず苗木勢がその攻勢を中断し、こちらが呼びかけた和睦交渉に応じた所以こそ、苗木勘太郎の負傷或いは戦死にあるのではないかと三郎左衛門尉は疑ったが、無論和睦交渉に臨んで弱味を見せるほど戦国の人々はお人好しではない。
三郎左衛門尉は攻めて、敵将を負傷させたか討ち取ったことを今生の思い出として腹を切りたいと思ったが、どうやらそれは果たすことの出来ない願いのようであった。
翌朝、三木三郎左衛門尉は死装束に身を包んで舞台峠の山を下りた。敵の眼前で腹を切るためであった。
侍でありながら毒矢というあるまじき手段まで用いて防戦に当たった三木三郎左衛門尉に対する苗木勢の怨みは凄まじく、さすがに厳粛な作法に則ってこれから腹を切ろうという三郎左衛門尉に対して野次を飛ばすような者こそなかったが、親類縁者を傷つけられ、殺された人々の怨みの籠もった視線は、三木三郎左衛門尉を容赦なく突き刺した。
三木三郎左衛門尉はそういった人々の目の前で見事腹を掻っ捌いてみせたのであった。
その晩、鍋山豊後守顕綱は苗木勢が設けた和睦成立の宴に出席した。
上座には苗木勘太郎の姿があった。
(死んでもいなければ怪我をしてもいなかったのだ……)
鍋山豊後守は安堵した。
もし敵将苗木勘太郎の死か負傷を恃んで後詰の一戦を挑んでなどいたら、いまごろ飛騨勢はどうなっていたかしれない。そういった出方をあらかじめ読んでいた敵方によって包囲され、全滅の憂き目を見ていたかもしれなかった。もしそうなれば、ただでさえ人の少ない飛騨という土地柄、数少ない軍役衆は討ち果たされ、飛騨はまったくの亡国となり、忽ちにして立ち行かなくなったことであろう。
鍋山豊後守はそう考えることで、義父を追放してまでこぎ着けた和睦を正解だったと自分自身に言い聞かせるようにした。
「鍋山殿」
不意に、鍋山豊後守が上座の苗木勘太郎に呼ばれた。
にじり寄る鍋山豊後守。
その顕綱に、苗木勘太郎が盃を授けながら言った。
「御屋形様(武田信玄)の御諚をお伝え申す。鍋山豊後守殿、此度の合戦に臨み自ら和睦を求めるとは殊勝の心懸け。これより以後、当国は鍋山殿を取次とし、飛騨といっそう入魂の間柄を築いて参ろうとの仰せである」
鍋山豊後守はその盃を押し戴いた。しかしなかなか盃に酒が注がれる様子がない。訝しんで顔を上げると、苗木勘太郎はぶるぶると激しく手を震わせており、瓶子をまともに持てないでいた。明らかに様子がおかしい。
ようやく酒を注ぎ終えた苗木勘太郎は、鍋山豊後守に引き続いて自らの臣下に次から次へと盃を与えている。先ほどとは打って変わって平静である。
その様子を見ながら鍋山豊後守の脳裏に不思議な考えが浮かんだ。
それは、いままさに上座にあって苗木勘太郎を自称しているあの人物はいったい何者であろうか、という考えであった。




