大威徳寺の戦い(四)
三郎左衛門尉より苗木勢との和睦交渉開始の了承を求められた自綱は、交渉の任を鍋山在城の舎弟、鍋山豊後守顕綱に命じた。
鍋山豊後守がこれに従い、大威徳寺の包囲を継続する苗木勢に和睦交渉を申し入れようとしたとき、強く反対する者があった。鍋山豊後守の義父、鍋山監物である。あの三木直頼の舎弟、新左衛門尉直弘の実子で、大八賀の有力豪族だった鍋山家を継承し(事実上の乗っ取りである)、いまは鍋山監物と称している者であった。
監物は
「圧倒的だった苗木勢が攻撃を中断するということは、常識的に考えて苗木勘太郎本人か、それに極めて近い人物が負傷した可能性がある。だとすれば敵は統制を欠いている可能性があり、いまは和睦よりも後詰を派遣して一挙に追い落とすが得策と考えるがどうか」
と顕綱に言った。
顕綱は義父の主張にも一理あると思ったので
「敵情を探索し、和睦か後詰かを改めて検討したい」
と自綱に言上したが、いま飛騨の国内に塩屋筑前は不在であり、後詰などといっても人を集められるアテがない。
自綱は自分が命令した和睦交渉を鍋山豊後守が無為に遷延させていると解釈して甚だ激昂し、
「誰も後詰など命じておらん。和睦して大威徳寺の籠城兵を救出せよ。それのみである」
と改めて厳命した。
良頼の政治力が失われつつあるいま、自綱の命令は国司のそれと同義である。顕綱は重ねて兄より和睦交渉開始を厳命されるに及び遂にこれを決意したが、困ったことに自綱の剣幕を知らない監物は飽くまで継戦論者としての立場を崩さない。顕綱は兄と義父との間で板挟みになってしまった。
ただ、板挟みとはいっても次期当主たる兄の意向が最優先なのは改めて言われるまでもなく、顕綱は自綱の命令に従って和睦交渉を開始しようとしたところ、監物は
「わしひとりでも大威徳寺に赴いて後詰致さん」
と息巻いて席を蹴った。
これなど老人の冷や水と笑える話ではなく、もし本当に敵方に斬り込むような真似を犯せば和睦を御破算にしかねない重大な抗命事件に発展する恐れがあった。
顕綱は左右の侍に命じて監物を追わせた。
監物が自邸に入ろうとしたところ、顕綱の手の者が監物を両側から抱えてこれを押し止めた。
監物は前鍋山城主としての威厳を前面に押し出して
「無礼を致すな、放せ」
と大喝したが屈強の侍に応じるふうはない。
監物はそのまま引き摺られるようにして鍋山城の大手から蹴り出された。
二階門には養子顕綱。
顕綱はその高みより義父監物を見下ろしながら
「お一人で存分に後詰なさるがよい。御家の方針は和睦でござる。さらば」
とだけいうと、ぷいっと奥へ引っ込んでしまった。よりにもよって義子に追放された監物は以後浪々の身となり、以後の行方は知れない。
邪魔者を追放した顕綱はさっそく大威徳寺に赴いた。
舎弟三郎左衛門尉より今日までの戦況を聴取すれば、敵方の損害も小さくはなかろうが城方も半分以下に減じており、後詰の一戦が如何に無謀なものであったか改めて思い知らされた。これは早々に和睦を締結しなければならない。
顕綱が和睦を求めると、苗木勢は顕綱が意外に感じるほどあっさりと交渉に応じる旨回答してきたあたりは、やはり何らかの凶事が苗木陣中を見舞ったのではないかと顕綱をして思わしめたものであった。
三木方からは全権鍋山豊後守顕綱、翻って苗木陣中からは木曾の家老山村三郎左衛門尉良利が出席した。苗木方は現在一時的に攻撃を中断しているが、戦況自体は寄せ手にとって圧倒的優位であることを知っていたので強気の交渉姿勢である。
通常であれば城将の切腹を以て開城、これにより籠城兵を助命するというのが通り相場だったが、苗木方はこれに加えて
「竹原郷の割譲」
を求めてきたのであった。
いうまでもなく竹原郷は三木家発祥の地であり、一族の故郷であった。
大威徳寺は未だ破られず、敵は竹原の寸土も踏んではいなかった。にもかかわらず竹原割譲を望んできたということは、敵方は三木勢に余力がなく、継戦能力を欠いていることを見透かした上でそのような無茶を求めてきたのであろう。
断って戦いを継続できるものならそうしたかった。それほど屈辱的な要求であった。
しかし余力を持たずこれ以上の苗木勢の攻勢に耐えられない三木家は、どんなに屈辱的であっても和睦を求める以外に途はない。
顕綱は苦渋に満ちた表情を示しながら
「やむを得ません。分かりました。そうしましょう」
とこたえる以外になかった。




