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飛州三木家興亡録  作者: pip-erekiban
第二章 三木良頼の謀略
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大威徳寺の戦い(一)

 東濃苗木城より、武田家麾下の苗木勘太郎率いる一軍が飛騨に押し寄せてきたとの一報を得た良頼は、その途端吐血した。飛騨はこれまで二度、武田の劫掠を受けたが、それはいずれも江馬家の領する荒城郡の話であり、三木家が本領を有する益田郡がその対象になったのはこれが最初であった。良頼が受けた衝撃は並大抵のものではなかった。


 苗木勘太郎といえば、武田家が信濃伊奈郡に進出したときからこれに通じた東濃諸豪族の一である。彼は長く武田と織田に両属しており、同じく東濃岩村に蟠踞して武田家及び織田家に両属していたのが岩村遠山氏であった。

 その岩村遠山氏が当代景任(かげとう)の死により跡目を失うと、織田信長は岩村城に五男御坊丸を送り込んで事実上の織田領として組み込む措置をとる。元亀三年(一五七二)のことである。


 武田家、織田家の両国関係はそれまで極めて良好であった。

 信長にとっての懸案は東国対策であった。もっといえば今川家対策である。いまでこそ凡愚の代名詞のようにいわれている今川氏真であるが、実は信長は、この人物が父義元の仇討ちと号して尾張に雪崩れ込んでくることを恐れていた。このころの信長は将軍義昭を奉じて入京していたのであり、東方での凶事発生は京洛において緒に就いたばかりの己が創業を放り出さなければならないことを意味していたからである。

 そして武田信玄は、信長にとって悩みの種だった今川氏真に掣肘を加える人物であった。

 甲斐武田氏、小田原北条氏そして駿河今川氏はいうまでもなく、互いに縁戚を取り交わして固く結ばれた間柄であった。所謂甲駿相三国同盟である。三国はこの同盟関係を最大限活用し、後顧の憂いなく両国拡大に邁進することになる。

 その三国同盟の雲行きが怪しくなるのは永禄三年(一五六〇)、桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に討たれた事件を境とする。

 信玄は永禄八年(一五六五)年末に、苗木勘太郎の娘にして信長の姪(龍勝院)を、自身の四男諏方四郎勝頼の正室として迎えているが、これは謂わば武田家にとって重要な同盟国だった今川家の仇敵と親類になるのと同じ行為であって、これにより武田今川間は急速に冷却化する。信玄はこれまで武田の成長を支えてきた三国同盟の破棄と、織田家との新たな同盟関係樹立という外交方針の一大転換を図ったのである。

 転換の過程で武田家中における親今川派の巨魁、嫡男太郎義信が謀叛のかどで幽閉される(後に病死。自害とも毒殺とも伝わる)など、とんでもない混乱を武田家中にもたらすわけであるが、廃嫡してまで織田家との同盟を重視した信玄に対する信長の気の遣いようは尋常ではなかったという。事実、両家の紐帯ともいえる龍勝院が元亀二年(一五七一)に病死したあとも、両家の同盟関係が途絶えることはなかった。

 この強固であったはずの武田家、織田家の急速な関係悪化には、徳川家康の存在など諸要素もあっただろうが、信長による岩村城接収劇も一因だっただろう。それまでは揺るぎない同盟国だとばかりに思っていた相手方が、国境の城を接収し、突如として喉元に匕首を突き付けてくるような真似をしたのだから信玄の怒りは当然であった。

 兎も角も両家の決裂により東濃諸豪族は、従前の両属関係から一転、いずれかに旗幟を鮮明にするよう求められた。

 苗木勘太郎が選んだのは織田信長ではなく武田信玄であった。

 武田信玄はその苗木勘太郎に命じて、飛騨を南から攻撃させたのである。これは上杉謙信の越中経営に一役買う飛騨三木家を南から攻撃し、越中一行一揆勢の活動を陰から支える信玄一流の陽動作戦であった。

 しかし死病に取り憑かれて余命幾許もない良頼には、列島を横断する信玄の巨視的作戦の全体像を捉えることが出来ない。否、そのような意図を理解していたからとてどうということがあろう。


 攻め寄せられたら戦って防ぐ。ただそれだけの話ではなかったか。


 一度は衝撃のために吐血した良頼であったけれども、即座に落ち着きを取り戻したあたり、やはり歴戦の士というべきであろう。

 三枝城の病床にあって諸人上を下への大騒ぎを耳にしながら良頼は言った。

「なにを慌てることがあろう。侍は戦うべき時には戦うものだ。これは主命に先立ってある我等侍の宿命というべきものである。心静かに合戦の準備をせよ」

 天文十三年の乱(一五四四)の折に、良頼に同陣していた叔父新九郎頼一が語った言葉が、良頼の口から放たれた。

 

 しかしそうはいっても病身の良頼には具体的な作戦指導を行う体力はない。実質的な指揮は、同じく三枝城に在城する自綱よりつながとらざるを得なかった。

 家中は現在、大身の塩屋筑前が越中在番のため不在であった。ほんらい上杉からは当主良頼による越中在番を求められていたが、病身により果たせないでいるために、上杉とつながりの強い塩屋筑前を在番させることにより疎心なきを誓った三木家だったけれども、その代償は高くついた。塩屋筑前を欠いた本国の守りは薄く、心許ない。

 この期に及んで自綱が恃みとしたのは己が舎弟三木(みつぎ)三郎左衛門尉さぶろうざえもんのじょうであった。


 自綱は三郎左衛門尉を召し寄せて言った。

「苗木勘太郎が益田郡に攻め寄せておる。これを返り討ちに討ち果たす名誉を汝に与える。兄弟の誼に則ってのめいである」

「お任せ下され。この三郎左衛門、どのような手を使ってでも必ずや他国の兇徒を打ち払って見せましょう」

 三郎左衛門尉はそう請け負って、苗木勘太郎迎撃の一隊を引率し、勇躍南へと発向した。

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