謙信の野望(二)
文書に目を通す国清の手が震えている。我が主とは言い条、そのあまりに横暴な言い分に、怒りを禁じ得ないでいるのだ。
文書には
追啓、永々順国御辛身察入候、此両種令進覧候、(中略)
其元様子無心許候ニ付、河田豊前守差遣候、先日被申越良頼事、弥無違乱居城を明渡、新庄可相移之旨可被相達候、良頼証人、塩屋筑前守、馬場才右衛門尉其上無別心之通、罰文調指越候、於左候者、為替之地五ヶ所出置候、急与可引渡候之事、
一、明春有無上洛之心入候条、於越中表貴殿見分次第、出城等可被相計候
一、樫木出城之儀、良頼為軍役可相守之旨、可被申含候、越中過半可属謙信之方、以罰文申越之間、猶以東郡江被出張様子被見届、二着ヶ間敷者共於有之者、即時可被追出、雖然者家頼之者共并妻子等証文於相渡者、可任其意候、越前表之様子、上洛之節、路次筋明細見分尤ニ候、義景別心有間敷、貴殿迄も、先年より預示候、雖然能々可取繕事肝要候、
一、飛騨国之様子、其方家頼若林采女丞差遣、国之様子令見分、上洛之時分越前北庄迄、可罷出旨、急与可被申遣候、飛騨国者ハ山国候間、軍役等拾分一ニ支度、内々意得候之様ニ、可被申含候、
一、公方江差上候馬之事、貴殿見分次第、可被相調候、(中略)
八月十日 謙信(花押)
村上源五殿宿所
と確かに認められている。
「其元様子無心許候ニ付」とあるのは、謙信より
「飛騨国衆を越中に国替えする」
と聞いた国清が、驚きのあまり茫然自失してしまったことを指しているのだろう。黙り込んでしまった国清の様子を謙信は「そこもとの様子、心許なき候につき」と心配し、この手紙と共に寵臣河田豊前守を国清宿所に派遣した上で、自分の意図を国清に対して明確に伝達しようとしたのである。
なお、謙信署名の初見は元亀元年(一五七〇)九月十五日付板谷修理亮宛文書とされている。本作では今後、特別の事情がない限り「謙信」の表記で統一するのであらかじめご了承願う。
三木家重臣塩屋筑前守と馬場才右衛門尉より起請文が提出され次第、替え地を渡すので居城を違乱なく明け渡せ。
そのように謙信は言っているのである。
その他条目の三つ目には
「上洛の時には飛騨勢を越前北ノ庄まで出張らせること」
及び
「飛騨は山間部だから軍役は十分の一にしたい」
と、具体的に指示していることが読み取れる。
国清が大きな溜息を吐いた。
目の前の河田豊前守はごく事務的に
「謙信公御諚でござる。即刻飛騨国衆に伝達されよ」
と告げるのみだ。
「近江の本貫地を棄てた上で御実城様(謙信)を頼って参じた貴公には分かるまいが……」
国清は俯きながら沈痛な面持ちで訥々《とつとつ》と切り出した。
「侍にとって己が先祖の累代守ってきた土地というのは、格別の思い入れがある場所なのだ。替え地をくれてやるから差し引き損得なし、だから累代の土地でも引き渡せ、というのであれば商人と同じ考えなのであって、弓矢によって当地を守り続けてきた武家にとっては承服しがたいことなのだ。自領を逐われたそれがしにはそのことがよう分かる。
このような要求を三木家に示せば飛騨国衆はこぞって武田に靡くであろう。そのことは疑いがない。河田殿には、源五が斯く申しておったと御実城様にお伝え下され。
それがしにはとてもこのような要求を突き付けることは出来ませんと。どうしても三木や江馬から飛騨を取り上げなさると仰せなら、それがしを飛騨取次から外された上で別の者から伝達なさるがよろしいと。
これは不忠のようであって実は忠義である。これまで味方であった者を、好んで敵方に追いやるは得策にあらず。そのことが理解できぬ河田殿でも、ましてや御実城様でもあるまい」
謙信は上洛を夢見るあまり、このような要求がどのような悪影響を家中にもたらすか、思考が及ばないのだろう。常人には及びもつかぬ怜悧な頭脳を持ったあの謙信ですら、上洛を目の前にした昂奮によって分別を失いつつあるように、国清には思われた。
この国清の訴えにはさすがの河田豊前守も
「分かりました。どこまで通るかそれがしも測りかねますが、国清殿の忠言は御実城様に確実にお伝え申そう」
と、その意を酌んで、飛騨国衆の国替え命令については一旦引っ込めるより他なかった。
* * *
上杉謙信が村上国清に対して、飛騨国衆の越中国替え構想を吐露したことは、史料が現存しているとおり歴史的事実である。しかしその後の歴史を見渡しても分かるとおり、三木家はおろか、江馬や廣瀬、或いは三ヶ御所の人々で、上杉主導で越中に国替えされた国人は存在しない。そのことは、この構想が何らかの事情で頓挫したことを今日に伝えている。また、この構想が三木家やその他飛騨国衆に伝達された形跡も見当たらない。
飛騨国衆にとってこの構想は、彼等の知らないところで密かに進展し、そして頓挫した話だったというわけである。
知らず知らずの間に圧倒的な力を以て押し寄せる抗いがたい運命という意味では、上杉謙信もまた武田信玄と同様、飛騨の人々にとって天災のような人物であったといえるだろう。
下々の国の苦難、ここに極まれりの感すらあって、そぞろ哀れである。




