謙信の野望(一)
唐突ながら一文引用しよう。「越佐史料」所収「上杉家古文書」永禄九年(一五六六)五月九日条である。
武田晴信たいち、氏康輝虎真実に無事をとけ、分国留守中きつかいなく、天下江令上洛、守筋目、諸士談合いたし、三好松永か一類悉かうへをはね、京都公方様、鎌倉公方両公とりたて申
輝虎が、このころ未だ越前朝倉氏に寄寓していた足利義昭より上洛督促を得て、某寺に奉納した願文である。過去に二度上洛を果たしていた輝虎が、この時も上洛の意志を有していながら、「分国留守中きつかい」のために上洛出来ないでいる様子や、上洛後は三好松永一党をことごとく討ち滅ぼし、「諸士談合」による合議制の政治を実行した上で、京都公方と鎌倉公方による旧来の幕府の二頭支配体制を取り戻そうという構想がここで明確に示されている。
輝虎が明らかに上洛を意識していたことを裏付けているという意味で、極めて興味深い文書である。
その輝虎にとって上洛の道は拓かれているも同然であった。即ち北陸道を経由しての一大上洛作戦の挙行である。
武田信玄が北陸道を使って上洛を企図していたとする意見については前述したとおりである。信玄のそれが結局未遂に終わったのとは異なり、越後に根を張る上杉輝虎が北陸道を利用しての上洛を企図していたことは、過去二度の成功例から見ても間違いがない。
越後を討伐しなければ北陸道にすら出ることが出来ない武田とは違って、上杉は、後背さえ安定しておればいつでも上洛の途に就くことが出来る絶好の場所に位置していたのである。これがなかなか果たされなかったのは、街道上にあってその上洛を阻もうという北陸の一向一揆勢、そして越後の後背を執拗に衝く武田、北条の蠢動によって右往左往させられているという事情があったからだ。
上洛を志向する当代屈指の天才輝虎にとって、自らに味方する各勢力は、その年来の野望を実行に移すための駒に過ぎぬ。
窮鳥懐に飛び込むの喩えどおり累年北信や関東に出兵を重ね、後世義将と讃えられることになる上杉謙信も、結局その発想は他の戦国大名と大差なかったということである。
あるとき、村上源五は呼ばれて輝虎の前に出仕した。村上源五国清は、北信葛尾城元城主村上義清の子で、いまは上杉家の部将として飛騨三木家との取次を務める大身である。その国清に輝虎は言った。
「飛騨国衆を越中へ国替えしようと考えておる」
そのように聞いて国清は耳を疑った。
自分が何か聞き間違いをして、おかしなふうに主君輝虎の言葉を聞いてしまったのではないかと思った。そう考えると国清は、輝虎の言葉に否とも応とも回答することが出来なかった。
困ってだんまりを決め込む国清に対して、輝虎は重ねて言った。
「飛騨は武田晴信の侵略に苦しんでおる。越中に国替えすれば飛騨国衆はきっと喜ぶであろう」
ここまで聞いてしまっては、もはや聞き間違いとはいえなかった。輝虎は三木家から飛騨を接収し、その上で彼等を越中に国替えしようと本気で考えているのである。それ以外に解釈のしようがないほどはっきりした言葉であった。
それは確かに越後の後背を安定させるという意味では確実な方法であった。江馬家は先代時盛期には密かに武田に靡いたことのある謂わば「前科者」であった。三木家も国力に乏しく、単独で武田に抗し得ない事情は江馬と同じである。
こういった「信用できない連中」から飛騨を取り上げ、よっぽど信用できる越後諸侍に飛騨を与え、江馬や三木を越中に国替えしてしまおうというのが、きっと輝虎の考えなのだろう。
これは輝虎の上洛を容易ならしめるという意味では確かに合理的な配置であった。しかしそれは輝虎にとって合理的というだけの話なのであって、三木や江馬が唯々諾々従うとも思われない構想であった。
如何に地力に乏しかろうが、武田の圧力を受けようが、彼等にとって飛騨は、先祖代々その地に根を張ってきた本貫地なのである。その先祖累代の地を、輝虎の野心一つで取り上げられて、三木や江馬といった人々が喜ぶはずがなかった。
そして自領を武田によって奪われ、越後に落ち延びたという経験を父義清と共有した国清にとって、輝虎の国替え命令を三木家に取り次ぐというのは心苦しい話であった。もし輝虎が、替え地さえ用意すれば問題なかろうと考えているならば、それは北信を逐われた自分たちに対しても当てはまる話だと考えねばならなかった。
だとすれば輝虎の考える飛騨国衆の処遇は、国清にとっても承服しがたい話であった。
「北信は取り戻せない。その代わり、分国に別の知行地を宛がう。それで文句はあるまい」
この理屈がまかり通ることになるからである。
義清、国清父子にとっての悲願は、この期に及んでなお旧領回復であった。そのために上杉に寄寓し、連年の厳しい軍役に従事しているのである。
輝虎は義昭より上洛要請の手紙を得て、そのあたりの分別を失うほど昂奮してしまっているのだろう。
国清は強いてそのように考えることにした。
なので国清は輝虎から飛騨国衆の越中国替え構想を聞かされて
「御随意に」
と、一歩引いたようにこたえるよりほかなかった。




