一瞬の栄華(四)
この将軍御座所における将軍義昭と信長の対面の様子を見ただけでも、その関係に一点の雲もないことは明らかであった。信長は自らが推戴して上洛させた義昭を重んじ、義昭は義昭で信長を父とも敬い、両者の間柄は文字どおり相思相愛といって良いほど良好なものであった。
当初は上洛を促す将軍御内書及びその副状から、信長が然るべき官途を帯びていないことを訝しむ観測もあったが、それも信長自身が
「いまは官位を帯びるほどの特別の馳走もしていないから」
と謙遜を交えて語っている以上は、将軍と信長の間に軋轢があると解釈できる余地は寸分もなかった。
自綱は将軍義昭と信長の関係を見極めて
(賭けに勝った)
と内心思った。
良頼、自綱父子が疑ったように、信長副状を怪しんで上洛命令を無視した大名も多くあった中、自綱が危険を顧みず上洛した結果、信長は天下人として実質を伴った活動を展開しており、将軍義昭との関係は良好そのものであることを確かに見届けたのである。両者の権力闘争に巻き込まれるのではないかとする観測は杞憂に終わり、三木家は天下人信長と、そして新公方義昭の懐に飛び込むことに成功したのである。
だからその自綱が
(賭けに勝った)
と自負するのも当然の話なのであった。
これにより三木家の権威は飛騨国内は当然のこと、武田や上杉といったやつばらにまで知れ渡ることになるだろう。
自綱はそのことを期待した。
実際、在京中の自綱の活動は公家衆としての実質を伴うものであり、遠く甲信越で血生臭い闘争の日々を過ごす信玄や輝虎には決して真似の出来ない、栄光の日々を過ごすことになるのである。
具体的には、飛騨国内に家領を有する山科言継と互いの邸宅、宿所を往来しては交流を深めたり、予定されている昇殿の儀に備えて信長側近武井夕庵の訪問を受け、儀式の打ち合わせを行うなど、三木家にとって真に意義のある活動をこの短い期間に自綱は行っている。
四月十四日には先述の二条新邸が落成し、その記念式典が挙行された。
自綱は徳川家康の如き信長の無二の盟友、そして畠山、一色などの三管領、四職に連なる大身、三好左京大夫や松永弾正といった面々とともに、この二条新邸落成の式典に出席した。
この式典に伴い、観世大夫、金春大夫立合の薪能が行われたという。
これも父良頼から聞いた話であるが、曾て飛騨に、狂阿弥を名乗る能の一座が立ち寄ったことがあったという。この時は折悪しく江馬の姫が病没し、その百日法要が迫る時節だったこともあって、直頼は飛騨国内での能興行の執行を許さなかった。
代わりにこの一座に引き出物を持たせ、将来の飛騨国内での能興行を約束したそうであるが、その後飛騨を襲った幾つかの戦乱のために、約束していた興行は未だ行われてはいない。
今を遡ること三十年ほども前の話である。
自綱は、飛騨国内ではついぞ催されたことのなかった薪能興行、父良頼も目にしたことがないその幽玄の世界を両眼にしっかりと焼き付けたのであった。
そして四月十八日。
自綱は小御所において主上に拝謁する空前の栄誉を賜った。
御簾の奥より玉言を賜る自綱。
曾て三木家が総力を挙げて猟官運動にいそしんでいたとき、主上と関白近衛前嗣が密かに政争の火花を散らしていたことなど、自綱は知らない。三木家が望んだ姉小路古川の名跡継承を、一度は蹴って反故にしたのが主上の思し召しであることも当然自綱は知らないことであった。
その、自綱の栄華を喜ばなかった主上より、今後益々忠勤に励むように、とする極めて簡素な御言葉を賜った自綱ではあったが、これぞまさに飛騨三木家栄誉の絶頂であった。
我が身に有り余る朝恩を賜った自綱は、比喩ではなく本当に感涙にむせび泣いた。
公家衆のうちにはそんな自綱に対し、
「小番にも就かず、ええ御身分でおじゃりますなあ」
と嫌味を言う向きもあった。
小番とは即ち禁裏小番のことである。これは内裏における宿直勤務のことであり、公家に対して定期的に割り振られる任務であった。
僭称ではなく実際に姉小路古川の名跡を得た自綱は、ほんらい公家の一員として宿直に就かねばならない立場であった。しかし飛騨の土豪に過ぎなかった三木家出身の自綱であるから、割り振られる宿直の勤務は名目上のことであり、実質を伴うものではない。つまりシフトの上では姉小路古川自綱にも宿直が割り振られているが、自綱はほとんど在国なのであって、その空いた穴を他の誰かが埋めねばならぬ理屈である。
先ほどの公家はそのことについて嫌味を言ったのだ。
しかしいまの自綱にとってはそんな嫌味ですら心地よく感じられる。嫌味を言われた不快感よりも、嫌味を言われたことで、却って本格的に公家の一員と認められた快感が上回ったためであった。
飛騨の山奥に逼塞しておれば永遠に浴することがなかったであろう栄耀栄華の連続。
街区や人々の立ち居振る舞い、話し言葉の流麗な様。
全てが美しく、得がたいもののように、自綱には思われた。
帰国の日が迫っていた。
(いっそ、飛騨のことなど忘れてこの地にとどまり続けようか)
一瞬、そのようなことを本気で考えた自綱であった。




