一瞬の栄華(三)
(若いな)
自綱は信長に対してそのような印象を受けた。信長は天文三年(一五三四)の生まれと聞いている。そうであれば生年三十七にも達しているはずだ。天文九年(一五四〇)生まれの自分より六つも年長のはずなのに、自分ですら持ちあわせていないだろうこの湧き上がるような若さは一体どういったことであろうか。
未熟という意味では断じてない。
これからなにか大事を成し遂げようとする者の特有する、覇気とでもいうべき気風が、この男の周囲には漂っていた。その覇気が寄る年波に勝り、これを押しのけているから若く見えるのであろう。
圧倒されて黙り込む自綱を相手に、作事現場を指し示しながら信長が語る。
「これなる邸宅は公方様の御為にこの信長が進呈する新たな将軍御座所でござる。これは昨年、公方様が仮の御所としてお住まいだった本圀寺が逆徒によって焼討に遭ったため、信長が馳走したもので……」
昨年(永禄十二年、一五六九)正月、当時将軍義昭が仮の御所としていた本圀寺は、三好三人衆や斎藤龍興等によって襲撃され、焼討に遭った。所謂「本圀寺の変」と呼ばれる騒擾事件である。
変自体は幕府奉公衆の奮闘によって義昭側の勝利に終わったが、岐阜に在って急報を聞いた信長は将軍を救助すべく取るものも取りあえず上洛し、義昭への忠節を真っ先に表明したものであった。
兎も角もこのような事件を経て、仮とはいえ御所を失った将軍義昭のために、信長が建築を急いでいたのがこの二条新邸であった。
その新築の将軍御座所を指し示しながら語る信長自身が、豪奢にして威厳を湛えた建築様式にほれぼれしているかのように見える。二条新邸の造営に、きっと信長自身が並々ならぬ情熱を注いでいるのだろう。自綱から聞かれもしないうちに滔々と語るあたり、その思い入れの深さが自ずと窺い知れようというものであった。
信長は言葉の最後に言った。
「明後日、我等は御座所に参じ公方様を伺候する予定でございます。宰相殿も公家衆の一として参られよ」
この信長の何気ないひと言に、自綱は全身が痺れるような感動を覚えた。
自綱自身、これまでにも内外に姉小路宰相を自称してきたものであったが、これなど俄仕立てにして僭称に等しいと陰口を叩かれてきたことを知らぬ自綱でもなかった。実際には姉小路古川の名跡継承は朝家から認められたもので実を伴うものであったが、余人から見れば飛騨の三木如きがなにを偉そうに、となることもまた自然の道理であり、名跡継承から数代を経るまではそういった陰口もやむを得ないことと自綱自身半ば諦めの境地にあったところにもってきて、実質的な天下人たる織田信長から
「姉小路宰相殿」
と呼ばれたことで、自綱は感動を禁じ得なかったのである。
もしこの場に良頼がいたら、どれだけ喜んでくれたことであろう。
顧みれば三木家の姉小路名跡継承は祖父大和守直頼以来の宿願であった。これを得るために様々な術策を弄し、幾多の戦陣を踏み、余人より嘲り罵りを受け、借財を重ねながら、苦難の末にその名跡を得たのである。
そういった苦労の末に得た姉小路の名跡を時の天下人が認めたのだから、父が喜ばないはずがなかった。
それからのひと月は、自綱にとって感動に彩られた夢のような日々の連続であった。
三月一日、織田信長を筆頭に畠山高昭、同高政、三好義長、大館左衛門佐、同伊予守、その他御供衆、御部屋衆等の武家が、公家衆として山科言継、烏丸一位、久我入道、飛鳥井中納言、同中将、烏丸弁、廣橋、三條少将そして姉小路侍従即ち姉小路古川自綱が将軍御座所に伺候する栄誉に浴した。
この席上、将軍義昭は、先年の本圀寺の事変に接し信長が諸侯に先んじて駆けつけたことや、このたび新たに将軍御座所として二条新邸を造営している忠節を満座に賞賛した上で、
「信長殿の忠節なくしては余は将軍としてここに座することはなかったであろう。余はその忠節に報いるべく、如何様の官途も望み次第と信長殿にお勧めしたが、信長殿はまだまだ馳走が足らぬと固辞されてどうにも受けて頂けぬ。
このうえは義昭、信長殿を御父とも敬おうではないか。
いかさま、信長殿はこの義昭を将軍の座に据えた生みの親同然であり、御父とするに誤りではあるまい」
と最大限の賛辞を贈るほどであった。
信長はといえば、
「これは過分の仰せ。この信長の一身に余る御言葉にございます。それがし公方様に対して今後一層の忠節を誓う所存にございます」
と、さながら感涙にむせぶが如く改めて馳走を誓ったのであった。




