一瞬の栄華(一)
三木家が上杉より課された越中在番の軍役に苦しんでいたころ、不可解な文書が家中に舞い込んできた。その文書を手に、発出者の真意を図りかねる良頼。もっといえば発出者そのものではなく、その文書に附された副状発出者の真意を図りかねたのである。
文書自体は、永禄十一年(一五六八)に上洛を果たした将軍足利義昭から発出された将軍御内書であり、各地の大名に上洛を促す通り一遍のものであった。
「二条宴乗記」永禄十三年正月十五日条には
就信長上洛可有在京衆中事
北畠大納言殿同北伊勢諸侍中、徳川三河守殿同三河遠江諸侍中、姉小路中納言殿同飛騨国衆、山名殿父子同□国衆、畠山殿同□国衆、遊佐河内守、(中略)此外其寄□ニ衆として可申触事、
同触状案文
禁中御修理武家御用其外為天下弥□□来中旬、可参洛候条、各御上洛、御礼被申上、馳走肝要、不可有御延引候、恐々謹言
□□廿□日 信長
依仁体文体可有上下、(後略)
(□部は判読不能文字)
とあり、信長が、畿内を中心に伊勢、飛騨、三河、遠江、播磨、丹波、丹後、若狭、近江、紀伊、越中、能登、因幡、備前などの国衆に対し、遅滞なく上洛するよう求めたことが知られている。
幕府が疲弊しきっていたこの時代には形骸化していたが、室町幕府はほんらい、遠国の大名を除いては在京させることを基本としていた。各地の大名はこの原則に従って在京し、室町殿(将軍)に近侍していたのである。在京制により、守護は自領に割拠することなく、幕府はその統制を強めた。守護が在京している間、現地の政務を執ったのが守護代といった人々で、在地ゆえに現地で力を蓄え、応仁文明の大乱以降はこういった人々が守護を放逐して戦国大名に成り上がった事例も多かった。
三木家も概ねこういった経緯を経て力を蓄え、守護京極氏や守護代多賀氏に取って代わった戦国大名であり、その三木家が時の中央政府から飛騨を代表する地域権力と認められ、在京を求められたことは歴史の皮肉というよりほかない。
余談はこれくらいにして、形骸化していたとはいえこのような在京制の原則がある以上、晴れて入京を果たした将軍義昭が改めて各地の大小名に上洛を求めた文書になんの疑念も持たなかった良頼ではあったけれども、不審なのは副状にある
「信長」
という署名であった。
それは単に「信長」とあるだけで、然るべき官途を帯びて諸大名に上洛を促しているものとは到底思われぬ。
織田信長といえば美濃の斎藤龍興を放逐して以降、伊勢にも勢力を伸張し、進境著しい大名であることは衆目一致するところであった。そして諸国を放浪していた将軍足利義昭が信長を頼り、六万の大軍と共に入京を果たしたことは広く知られた事実であった。
将軍家に対して貢献するところ大であったにもかかわらず、「信長」とだけ署名している理由が、良頼には理解できない。
通常であれば、幕府より然るべき官職を奏請され、箔を付けた上で副状を添えるべきと考えられたためであった。
なので副状の署名が
「信長」
とある点について、良頼は深読みせざるを得なかった。
即ち信長は、将軍義昭を推戴して入京を果たしたものの、何らかの事情で義昭と軋轢を生じ、ほんらい賜るべきだった官職を得られず、僭称である上総介のまま副状を附して各大名に上洛を促さざるを得なかったのではないか、と疑われたのである。
良頼は将軍御内書と信長名義の副状とを自綱に示した。
「余の考えすぎかもしれぬが、御公儀と信長公との間で何らかの対立があったのではないか」
良頼の意見に対し、自綱も同じくその真意を疑って言った。
「確かに仰せのとおり。安直に上洛すれば御公儀と信長公との対立に巻き込まれかねません。これは困った問題になり申した」
実際、この御内書を受け取った各大名の対応はまちまちであった。然るべき官途を帯びず、上総介を僭称する信長の副状が添えられているというそのこと自体が、諸大名に疑念若しくは反発の念を抱かせたのである。信長はそのことに思いが至らなかったのだろうか。
結局この上洛命令を無視する大名も多いなか、信長はその中でも有数の大大名である越前の朝倉義景をスケープゴートに仕立て上げ、将軍の命令に従わない者の代表として討伐対象に定めることとなる。
ただその戦いは決して安易なものではなく、とんでもない混乱をもたらすことになるのであるが、それはもう少し後の話であり、また余談である。




