下々の国の苦難(八)
武田氏が越中一向一揆との連携を模索したのと同様に、上杉輝虎もまた越中経営を重視していた。これはいうまでもなく、越中が北陸道を擁する交通の要衝だったからだ。この地が敵対勢力同然の一向一揆勢の手中にある情勢は、輝虎にとっては極めて好ましからざる事態であった。
そして輝虎にとって、飛騨は既にそのほぼ全域が上杉の掌中に収まったのと同じであった。
武田と結んで国中に背いた江馬左馬助時盛は既に亡く、その時盛の敵対勢力だった輝盛が江馬を継承した以上、輝盛は当然反武田であり親上杉である、と輝虎は読み替えた。
加えて三木家は、永禄七年(一五六四)に行われた武田氏による飛騨侵攻作戦に際して、上杉に救援を求めた過去があった。上杉はその要請に従って北信に出兵し、結果的に飛騨に侵入してきた飯冨三郎兵衛尉の大軍をそこから引き剥がすことに成功したのである。三木家にとって上杉は救世主だったのであり、その存在がなければ到底武田に抗し得ない以上、三木も上杉に屈服したと同然である、と輝虎は考えていた。
いまや飛騨は、庄川流域に独自勢力を築いていた内ヶ島氏を除いては、その全域が上杉の勢力下に置かれたものと輝虎は解釈したのである。
その輝虎が、要地越中への在番衆を必要としたとき、飛騨の諸侍がその軍役に服さなければならないことは自明であった。
「越中在番を命ずる……」
飛騨と越後を取り次ぐ村上源五(国清 )からの文書を見つめながら、三木良頼は呻吟した。目の前には村上源五からの書状を預かり、ここ三枝城に派遣されてきた若林采女丞。
「拒否する権利はないぞ」
とでも言いたげである。
飛騨は元来一向宗とのつながりが深い地であった。先代直頼のころには、本願寺法主証如の要請に従って美濃郡上郡に出兵し、現地の本願寺勢力である安養寺実了、鷲見、畑佐等に合力して、美濃守護方の遠藤、野田と干戈を交えたこともある三木家のことだ。
その三木家が、如何に恩義のある上杉家からの要請だからといって、越中一向一揆と睨み合う越中在番を命じられたことに、良頼は内心苦悶した。
苦悶したがしかし、良頼には
「分かりました」
という以外のこたえは準備されてはいなかった。
良頼は若林采女丞の帰還を見届けたあと、家中衆を召し出して、越中在番の軍役が課されたことを説明しなければならなかった。
諸将からは案の定、不満が噴出した。
曰く
「我等侍たる身なればこそ軍役を厭うものではございませんが、家中に多く門徒衆を抱えながら、かつ越中の門徒と睨み合う越中在番の任など到底勤まるとも思えません。かかる家中の情勢を上杉家に丁寧に説明し、輝虎公の御理解を賜って断るより他にございますまい」
とするものの他、曰く
「思うに輝虎公の眼は常に西か、関東に向いているように思われる。我等は武田の劫掠からこの飛騨を守るために越後との同盟を重視しているが、輝虎公は西上せんと欲する己が野望に我等を協力させようと企んでいるようにしか見えぬ。これでは武田同様信用できないではないか」
こういった反対論が噴出したのである。
特に良頼を困惑させたのはほかならぬ嫡子自綱であった。
「我等小なりといえど姉小路古川の家名に連なり公卿に列する身。朝家より賜った席次はたとえ関東管領といえども我等に及ぶものではございません。古川の名跡を得たのはこのようなときに備えてのことではござらなんだか。いまからでも遅くないので、姉小路古川たるを前面に押し出して越後の無礼な要求を断るべきです。
父上は何故唯々諾々と越中軍役などを飲まれたか」
これまで自綱が表立って良頼に反対意見を陳べるということはなかった。多少の齟齬はあっても結局は父良頼の方針に従い、その分身として両国経営に邁進してきた自綱からの思わぬ反対意見に接し、良頼は面食らった。
自綱には先年、子が生まれていた。姉小路古川の名跡を継ぐ男児、鶴松である。
この鶴松に自分達が築き上げてきた全てを譲り渡さなければならない。
その強い思いが自綱に芽生えたものであろうか。
もし良頼や自綱が目先の安寧ばかり求めて将来を見据えなければ、その代償を支払わされるのは長じてこの国を継承することとなる鶴松であることは、間違いがなかった。
自綱の強硬な反対意見はそのことを見据えてのことであろう。
全幅の信頼を置く自綱に反対意見を突き付けられた良頼は、紛糾する合議をまとめる方法を見失ってしまった。




