下々の国の苦難(七)
それから五カ月後。
信飛国境を跨ぐ安房峠を越えた三井市蔵の一行は、荒城郡高原殿村にある江馬氏下館にいた。馬匹五駄、人夫十名の一行である。荷は具足櫃。
「このようなことは初めてです」
三井市蔵は、上座に座する江馬常陸守輝盛相手に困惑交じりに言った。
年頭に木曾から江馬に手紙が送られた所以こそ、江馬家側から武田家に服属を願い出ることを申し出るよう求める暗示だったにも関わらず、輝盛はむしろ逆に、武田家に対して祝賀の品を贈ってくるように要求したのである。並外れた図々しさというべきであった。三井市蔵が呆れたのはそのためだ。
その市蔵に対し、江馬輝盛は笑みを浮かべながら訊いた。
「信玄公は我等が祝賀の品を所望していると聞いて、どのような御様子でしたか」
「御屋形様(信玄)は人前であまり喜怒哀楽を面に出さぬお方です。江馬殿が具足を所望していると言上した際も、殊更不機嫌になるとか、怒りを顕わになさるというようなことはござらなんだ。ただ……」
「ただ……?」
輝盛が続きを促すと、三井市蔵は
「左様、それがしが、江馬如きがまことに図々しい申出でございますと申し上げると、御屋形様の口角が少し上がったように見え申した。その席上、御屋形様より具足五領ほど贈呈してやれとの御諚をそれがしが拝領し、このように越した次第です」
とこたえた。
「随分と悪し様にいう」
輝盛は祝賀の品を求めた行為を図々しいと言ってのけた三井市蔵の物言いに、苦笑いを禁じ得なかった。
甲信二箇国の太守信玄にとって、このたびの輝盛の要求は、路上を行き交う車馬に向かって斧を振るう蟷螂にも似た行為と映ったことだろう。いかさま、輝盛もその気概なくしてかかる図々しい申出を行ったものではない。
信玄が今後にわたり越中一向一揆との連携を模索し続ける以上、武田の圧迫がこの荒城郡に加え続けられることは避けようのないことであった。いまは輝盛からの要求を聞いて余裕の笑みを浮かべた信玄ではあるが、いつまた本気でこの荒城郡に押し寄せてくるか知れたものではない。
そうであればこそ輝盛あたりが
(能う限り、武田から搾り取ってやろう)
と考えたのは自然の成り行きなのであった。
* * *
江馬輝盛が武田信玄に対して具足を所望した事件は、「神岡町史」史料編所収「武田信玄勘通状」により明らかである。
江馬輝盛殿具足就所望、三井市蔵被差遣、馬荷物五駄、人荷十人、山通道可為勘通候、如件
永禄八年丑五月 信玄(花押)
諸関中
とする、諸関に宛てて発出された勘通状がそれである。
武田信玄はその後、永禄十三年(一五七〇)にも
江馬左馬助殿為具足所望、馬数四ツ被通之条、谷中諸関上下無其煩、可為勘通之者也、仍如件
永禄十三年庚午八月十八日
諸関中
とする勘通状諸関宛に発出しており、武田家と江馬家が永禄十三年時点までなんらかのつながりを保ち続けていたことは間違いがない。
なお、後者の勘通状にある「江馬左馬助殿 」が江馬輝盛と同一人物であるかどうかについては相当の検討が必要である。
作中では既に死亡している江馬左馬助時盛は、実際は没年が明らかではない。「江馬家後鑑録」「累代記」ではその没年を天正六年(一五七八)としているし、「円城寺過去帳」では天正元年(一五七三)としていることから、後者の勘通状発出時点では時盛は生存していた可能性があり、ここにいう「江馬左馬助殿」が時盛を指している可能性も排除できないのである。
ただいずれにしても、江馬家と武田家の間に物品の往来があったことは二通の勘通状が現存していることからも明らかであり、上杉謙信が越中に勢力を伸張する中、江馬家が上杉武田という列強大国の中間に置かれながら、必死に家名存続を模索している様子が目に浮かぶ内容であることは間違いない。
そして列強国の動向を見極めながら慎重な舵取りを求められる過酷な運命は、なにも江馬家だけではなく、飛騨の盟主を自認する三木家にも容赦なく襲い掛かってくることになるのであった。




