下々の国の苦難(六)
江馬常陸守輝盛のもとに、木曾義昌からの書状が届けられたのは左馬助時盛を弑虐して惣領家の地位を取り戻した直後のことであった。輝盛一党はこれにより、否応なく甲斐武田家との今後の関係を考えなければならなくなった。
輝盛一党はつい先日切腹して果てた時盛が、その死に際して遺した
「武田は今後も引き続き荒城郡に食指を動かすことであろう。そのたびごとに汝は武田を選ぶか上杉を選ぶか、はたまた頼みにならぬ三木を選ぶかを迫られるのだ。思うに力なき者の宿命と申すべきものであろう。苦しく、険しい道であるぞ」
という不気味な予言が実現しつつあることを意識せざるを得なかった。武田が信濃を領する限り、国境を接する飛騨はその圧力とどうしても無縁ではいられない現実を、輝盛はまざまざと見せつけられる思いであった。
木曾からの書状は、永禄八年(一五六五)年頭祝賀及び輝盛が江馬家家督を継承したことを祝賀する社交辞令から始まり、輝盛に対して時盛存命中と変わらぬ交誼を希望する旨で締め括られていた。
享禄元年(一五二八)に木曾義元が飛騨に侵入した事例にとどまらず、武田に屈服した後も、木曾は飛騨侵攻の尖兵を務めるなど、国境を接しているだけあって飛騨との関わり合いの深い領主であった。
永禄に入ってから、武田は二度、飛騨に侵攻している。
一度目は永禄二年(一五五九)のことで、そのときは江馬輝盛が敵将飯冨源四郎と一騎討ちに及んでいるし、同七年(一五六四)には輝盛は、麾下の檜皮次郎左衛門尉を、折から撤退中だった武田勢に対する追っ手として差し向けてもいる。このように輝盛と武田家、木曾家は近年激しく対立した相手方だったのである。
その木曾家からもたらされてきた文書は、文面上は何の変哲もない外交文書に過ぎないものであった。
しかし激しくやり合った相手方から家督継承を祝賀する手紙が届けられたことは、むしろ江馬輝盛一党の心胆を寒からしめた。
輝盛は手紙の行間から
「そなたなどいつでも押し潰すことが出来る。家督継承取り敢えずおめでとう」
という信玄の恫喝を過たず読み取った。
時盛も同様の恫喝を受けて、三木家との累年の交誼を配してまで武田に靡いたのであろう。それは時盛にとってはやむを得ない選択だったのかも知れない。
しかし輝盛が時盛と決定的に違った点こそ、己が武勇を恃むところ甚だ大である、という点であった。
輝盛の父常陸守時貞が天文十三年の乱(一五四四)に横死してからというもの、河上富信は、旧主の仇討ちを誓って輝盛を幼いころから鍛えに鍛え上げたものであった。それは他から見れば、輝盛の健全な肉体を破壊しかねないほど激しいものであった。事実富信は、もし稽古の過程で輝盛が身体を壊してしまえば所詮その程度のものだったと諦め、自身は仇敵江馬時盛の館にでも単身斬り込んで、先主に対する義理立てを果たした上で死んでしまおうと覚悟を決めて臨んだものであった。
輝盛は富信の期待によく応え、或いはその期待を越えて当代にも稀な武勇を誇るようになった。厳しい鍛練を重ねただけあって、魂も並外れて強い。
輝盛は確かに武田から加えられるプレッシャーを感じてはいた。しかし良くいえば楽観的に、悪くいえば事態を軽視して
「まだ武田が攻め寄せてきたというわけではない。戦ってもいない相手に服属する謂われはない」
と考えているあたりは、時盛が武田の恫喝を前に戦わずして服属を決めたこととは決定的に違っていた。
木曾から贈られてきた手紙に家中が騒然とするなか、輝盛はそれなど大したことがないとでも言いたげに
「恫喝であろうがなかろうが、文面上は武田は我が家督継承を祝賀しているのだ。ただそれだけの話ではないか。なにを慌てふためくことがあろう。むしろ当家から祝賀の品を所望するくらいの図太さがなくてなんとするか」
と言ってのけ、さっそくその旨記した返書を認めさせるほどであった。




