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飛州三木家興亡録  作者: pip-erekiban
第二章 三木良頼の謀略
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下々の国の苦難(四)

 話は少し遡る。江馬時盛死去直後のことである。

「江馬左馬助時盛が、一族庶流江馬常陸守輝盛によって切腹させられたらしい」

 この情報は、さっそく木曾家重臣山村(やまむら)三郎左衛門尉さぶろうざえもんのじょう良利よしとしによって甲斐躑躅ヶ崎館にもたらされた。山村良利の注進を得て、飯冨おぶ三郎兵衛尉さぶろうひょうえのじょう昌景まさかげはその顔を不快に歪め、

「我等いずれ再びこの地に参るゆえ、地歩を固めて寸土たりとも失陥するなと申し含めておいたに、不甲斐ない」

 と毒づいた。

 これは先年永禄七年(一五六四)八月、飯冨三郎兵衛尉昌景が甲信の諸侍五千を引率して飛騨に侵攻したにもかかわらず、北信川中島に山内上杉輝虎が出現したとの報に接して撤退したときのことを指していた。

 昌景はこのとき、江馬左馬助時盛に荒城郡の後事を託して急ぎ北信に取って返したという経緯があった。時盛にとって昌景のこの動きは、二階に上がって梯子を外されたのと同然であり、武田の後ろ盾を失っては南北から迫る三木家及び常陸守輝盛に抗し得るはずもなかったものであるが、大国武田の奉行飯冨三郎兵衛尉昌景には、後事を託したはずの時盛があっさり敵の軍門に降ったことは、不甲斐ないのひと言で片付けられるべき性質のものであった。

 昌景はさっそくこのことを信玄に注進した。善後策を検討するためであった。

 信玄はことのあらましをひととおり聞いた後、

「この際荒城郡に手練の軍役衆を送り込み、接収してしまうというのはどうか」

 と昌景に諮問した。

 昌景はほとんど反射的にこたえた。

「御屋形様の意図は、荒城郡に番手衆を送り込んで武田の直轄領に組み込み、越中一向一揆との連絡を容易たらしめんとするところにあるとお見受けします」

「いかさま、そのとおりである」

 信玄がそう言うと、我が意を得たりとばかりに昌景がこたえた。

「越後は我等のそのような動きを警戒しております。長尾(上杉家のこと。当時、上杉輝虎と敵対していた武田家の人々は、長尾景虎による山内上杉継承と関東管領就任を認めず、最後まで長尾と呼称している)とて越中越後国境の根知城にの村上義清を配し、越中飛騨に睨みを利かせております。

 かかる将が北方から荒城郡を窺う情勢下、我等が荒城郡を直轄化して番手衆を送り込むような挙に及べば、荒城郡の支配権を巡って長尾家と泥沼の戦いがまたぞろ繰り広げられることにもなりかねません。

 そこで勝利しても得られるのは越中一向一揆勢との連絡のみ。しかも飛騨は実り薄き土地柄で、山がちではあっても見るべき金山を擁するわけでもなく、直轄化は百害あって一利なしと愚考します」


 愚行、などと言葉の上では謙遜こそすれ、昌景の献言は確信に満ちたものであった。

 黙って聞いていた信玄はといえば、村上義清の名が昌景の口から飛び出たあたりから不愉快そのものといった表情を浮かべた。

 というのは、いまは越後の客将に身をやつしている村上義清ではあるけれども、曾て天文十七年(一五四八)二月に信州上田原で、更に二年後の天文十九年十月には砥石城で、二度にわたり武田信玄を大破する殊勲の星を挙げたのが村上義清であった。信玄はその名を聞いて、過去の手痛い敗北を思い出したのだろう。

 

 昌景は信玄の不愉快そうな表情に構わず続けた。

「思うに飛騨は在地の国人諸衆に支配を任せ、我等は武力や財力を背景にこれをちらつかせながら、我等に利となる行動をその都度取らせるにとどめた方がどうも良さそうです。常陸守輝盛如きは、反武田の旗印を掲げたというより、累年の一族間の怨念を晴らすために時盛を討ったようなもの。嘘だと思われるなら、一度常陸守輝盛に宛てて交誼を求める書状でも発してみては如何ですか。きっと打ち返しがございましょう」

 ここまで聞くと、さすがに大国武田の領袖信玄、昌景の言わんとするところを理解し、さっそく木曾谷の領主木曾義昌を経由して江馬常陸守宛に交誼を求める書状を送ったあたりは、名より実を重んじる戦国の怪人武田信玄の面目躍如といった措置だった。つまり武田は、飛騨国荒城郡に発生した革命を事実として受け容れ、新たに樹立された革命政権を追認すると共に、これを懐柔する方針に一決したのである。


 このように武田首脳部の対飛騨戦略が

「革命政権の温存」

 と決した上は、江馬左馬助時盛が高原諏訪城落城に際して武田領国に逃した和邇わに新右衛門尉しんえもんのじょう江馬えま道寿丸どうじゅまる、それに武田家に旗本として取り立てられていた時盛嫡男右馬允(うまのじょう)信盛のぶもりが、新主信玄に対しいくら旧領回復を願い出ても 

「いずれそのうちに」

 と言を左右にされるばかりで、一向に願いが果たされるということはなかった。これぞ、大国の思惑に翻弄される飛騨の小領主江馬家の悲哀というべきものであろう。

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