下々の国の苦難(二)
いかさま、頼一のいうとおり姉小路古川の名跡継承について、悪し様に噂する声が上がることは、当然のことと考えねばならなかった。
「古川の名跡を継承した如きは、木鶏の故事に喩えれば、未だ気負いが取れず敵を見下している並の軍鶏に過ぎぬ段階。王者を名乗りながらその実、木鶏にはほど遠いとお心得あそばせ。
泰然として構え、その威徳を前に諸衆自ずからひれ伏すこれぞ木鶏。無用に兵を動かし、兵禍を国内にもたらすなど以ての外にございます。ゆめゆめお忘れあるな」
新九郎は重ねて言った。
これは良頼にとって耳の痛い話であった。先代直頼が亡くなった直後、姉小路三家に対する叙任に嫉妬の炎を燃やし、天文十三年の乱(一五四四)以来途絶えて久しかった戦乱を国内に惹起せしめたその所業を咎められたように思ったからだ。
そして新九郎頼一は、良頼が三カ御所に対し挙兵したおこないを、当時面と向かって諫言したものであった。
次いで新九郎は自綱に言った。
「自綱殿。いまそれがしが申した王滝村の合戦しかり、江馬時貞の謀叛(天文十三年の乱)しかり、我が三木家が国内のいくさを勝ち抜き、いま飛騨の領袖としてあるは如何なる理由によってか、おわかりか」
父良頼に代わって新九郎頼一の枕許ににじり寄った自綱はこたえた。
「一族相和して、争うことがなかったからです」
伯父頼一からの問いは、その死に際して祖父直頼が、まだ幼かったころの岩鶴(自綱幼名)に投げかけた問いと同じものであった。
江馬家や三カ御所が一族間で争って次第に力を失い、飛騨の盟主たり得なかったことによって、始まってからの歴史が浅く内訌を経験しなかった三木家がこれらに取って代わることが出来たのである。江馬家や三カ御所が独り相撲の末に転んでくれていなければ、飛騨守護代の一被官に過ぎなかった竹原郷の三木家如きが、姉小路古川の名跡を得られるほどに肥大化するなどどだい無理な話であった。
一族相和して結束したことにより、初めて三木家は飛騨の盟主として歴史の表舞台に躍り出るとが出来たのである。それは、三木家が飛騨に雄飛する前後の状況に照らしてみても、間違いのないことであった。
新九郎頼一は、そのことを自綱に言い遺したかったのであろう。その証拠に、自身の問いかけに対する自綱の回答に、頼一は安堵したような表情を浮かべた。
「一族相和して共栄すれば三木は自然と王者の気風を湛え、国衆はその威徳を前に自ずからひれ伏すことでございましょう。それがしは間もなく逝きますが、ますます一族の結束を固く結んで当たれば、お家の繁栄間違いなし…… 」
そうまで言うと頼一は、大きく肩で息をつき瞑目した。言い遺すべきは全て言い遺したとでも言わんばかりであった。
新九郎頼一はこれより幾許も経ず三佛寺城で亡くなった。
飛騨三木家の勃興期を支えた四兄弟末弟の、静かな晩年であった。




