時盛切腹(二)
無論常陸守輝盛は、三木父子によって下されたこの裁定が、怨念を温存し江馬の弱体化を引き続き図ろうという思惑に基づいた芝居であることなど知る由もない。彼はただ、この度の時盛再乱に勝利し、その対価として得られるはずだった惣領の地位が手に入らないことに苛立ちを隠せないでいた。
当然のことであろう。
一方で江馬左馬助時盛といえば、恩情を以て惣領に復帰したとは言い条、自分を支える左右の侍臣は前の合戦によってあらかた失われ、生き残った数少ない曾ての味方も、心が離れて恃みにならない有様だった。これは、このまま時盛に従っていても栄華は望めない、とする打算が諸侍に働いたというよりも、前の敗北に伴い、多くの戦死者を出した責任を、惣領たる時盛が負わず、いまものうのうと生き延びていることへの幻滅があったからだ。
やはり時盛は、落城に際して切腹するか、縄目を受けながらでも舌を噛み切って自死すべきだったということである。
さて、武田に与した高原の江馬左馬助時盛が依然総領の地位にあると聞いて驚いたのは、此度一乱に際して北信川中島に出兵し、飛騨の上杉方(三木父子及び常陸守輝盛)に援護射撃した山内上杉輝虎であった。
燕雀いずくんぞ鴻鵠の志を知らんや
曾て大国秦に叛き、これを討ち滅ぼす嚆矢を放った彼の陳勝の言と伝わる。燕や雀といったつまらぬ鳥が、鴻や鵠(白鳥)のように高空を飛ぶ鳥の志を理解できるはずがない、と歎く言葉は、鴻鵠たるの立場にある人間にもそのまま適用することが出来るだろう。高い空を飛ぶ鴻鵠には、より地面に近い低空を飛ぶ燕雀の志は知れないものである。
その意味で、越後太守にしていまや関東管領にある上杉輝虎は、地を這うが如き飛騨の人々の志を、いつまで経っても理解できない鴻鵠そのものであった。
輝虎にとって、一度ならず二度までも武田に与した江馬左馬助時盛は、好ましからざる、というよりは、赦すべからざる存在であった。これまで縷々陳べてきたように、武田は飛騨国荒城郡を通路として越中一向一揆との連携を模索していたのであり、もしこれが成れば越後にとっては飛騨を経由して仇敵同士が手を結ぶ厄介な問題を招来しかねない事態であった。
輝虎にとって武田と越中一向一揆との連絡は、飛騨高原で遮断されなければならない性質のものだったのである。
この度の江馬再乱に際して勝利した三木父子が左馬助時盛を赦免したことなど、鴻鵠たる上杉輝虎には全く以て理解できないことであった。鴻鵠には、今後とも江馬家の怨念を温存し、引き続き江馬家の弱体化を図るという燕雀の志はやはり理解できないものだったのである。
輝虎はかかる不可解な裁定に疑問を抱きながらも、かといって他国の裁定に口出しする名分もなく、自身の寵臣にして飛騨取次たる河田豊前守長親経由で誓詞を差し出すよう、嫌がらせのように何度も左馬助時盛に求めるのが関の山であった。その一端を示せばこうだ。
貴札拝見、本望至極候、如仰去秋以誓詞申入候処、唯今預御使者、殊黒毛馬被懸御意候、畏悦之至候、随而条々蒙仰之旨、非別心候条、任承旨、以血判申候(後略)
十二月廿三日 時盛(花押)
山内殿人々御中貴報
「越佐史料」に引かれた「歴代古案」や「飛騨編年史要 」所収の、江馬時盛発上杉輝虎宛誓詞である。
文中では、
如仰去秋以誓詞申入候処
即ち、命じられて去る秋、誓詞により忠節を申し入れたと記されていること及び、
唯今預御使者、(中略)非別心候条、任承旨、以血判申候
上杉の使者経由で、謀叛の心根がないことを血判状で申し入れるよう改めて求められていることが窺える。時盛は上杉輝虎から短期間のうちに少なくとも二度、誓詞の提出を求められていることが分かる。
明らかな嫌がらせといえよう。




