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飛州三木家興亡録  作者: pip-erekiban
第二章 三木良頼の謀略
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江馬再乱(五)

 武田信玄は、永禄七年(一五六四)七月十九日、編成した飛騨派遣軍五千を再度飯冨(おぶ)三郎兵衛尉さぶろうひょうえのじょう昌景まさかげ(飯冨源四郎のこと)に預け、永禄二年以来五年ぶりの飛騨侵攻の兵を挙げた。

 この報せはさっそく、江馬輝盛から国中くになかの三木良頼、自綱よりつな父子、そして越中在番の上杉家客将村上義清にもたらされた。輝盛はこれを機に再乱に及ぶであろう江馬左馬助時盛を、南の三木家と北の上杉家とで押し潰してしまおうとしたのである。

 いかさま、このいくさに敗れれば後がない時盛は、武田の来寇と時を同じくして挙兵に及び、半ば自暴自棄ともいえる激しい攻勢のために岩ヶ平城の江馬常陸守輝盛一党は一時、越中国境にまで逼塞しなければならないほどであった。


 因みに、先ほど上杉家と記した。

 これは越後長尾家が、関東管領山内上杉(やまのうちうえすぎ)憲政のりまさから永禄四年(一五六一)に上杉名跡を譲られたもので、その際長尾景虎は関東管領職と同時に憲政から一字を拝領し

「上杉政虎」

 の名乗りを挙げている(同年十二月からは将軍義輝の偏諱を受けて輝虎と改名)。


 話を飛騨の情勢に戻そう。

 飯冨三郎兵衛尉の大軍に対し降伏勧告を拒絶して飽くまで三木家側に立った袈裟山千光寺は、武田の軍勢に攻められ火を掛けられた際、その火勢に熱せられた梵鐘が真っ赤に燃えながら崖を転がり落ちて、武田の将兵の多くを焼き殺し押し潰したという伝承が今日伝わっている。三木直頼によって鋳造されたこの梵鐘は現存しており、幾多の摩耗したような損傷が、そのときの疵だと伝えられている。

 これは主に「飛騨国治乱記」或いは「飛州千光寺記」「飛州軍乱記」といった軍記物に記された伝説であり、信ずるに足らない俗説である。

 袈裟山千光寺は先述の天文十三年の乱(一五四四)に焼失したことはほとんど間違いがなく、これが再建されたのは二年後の天文十五年、三木直頼の手によるものであった。これ以降袈裟山千光寺が兵火にかかって焼損した確実な記録は存在せず、一方で天正八年(一五八〇)に記された太平山安国寺の「経蔵修補勧化願文」には


茲年已眠指十七年前、甲子秋(永禄七年、筆者註)闔国騒屑頻罹兵火、仏宇僧廬一火皆成原矣


 とあり、天文十三年の乱に引き続き兵火にかかって焼け落ちたのは袈裟山千光寺ではなく安国寺であることは間違いがない。


 いずれにしても高原の江馬輝盛主従は全力を投じても百騎そこそこ、国中を掌中に収める三木家ですら、三カ御所や廣瀬氏の兵を糾合してやっと五百騎に届くかどうかといったところで、五千を擁する飯冨三郎兵衛尉との兵力差は、いくさをするのもばかばかしいほど隔絶したものであった。


 江馬時盛にとっては逆徒に違いなかった常陸守輝盛は本拠地岩ヶ平城を棄てて、いまや越中有峰にようやく逼塞する程度で、越中からの援軍を山中で待ちわびるの惨状。飛騨の支配者三木家は各人震えながら国内の諸城に籠もり、時盛は曾て憎んだ武田の来寇を得て得意満面であった。

 

 時盛は惣領家家中衆百騎を従えて飯冨三郎兵衛尉の在陣する本陣に出仕した。

 出迎えた飯冨三郎兵衛尉は尊大に

「出仕ご苦労である」

 と時盛に告げた。

 江馬時盛はいにしえの平相国に連なる出自の誇りも忘れて武田の一奉行に過ぎぬ飯冨三郎兵衛尉にひざまづいてその麾下に参じることを宣言した。その証として時盛は、嫡男右馬允(うまのじょう)信盛を人質として武田家に差し出すことを申し出た。なりふり構わないとはこのことであろう。

 時盛は飯冨三郎兵衛尉に対して

「恐れながら申し上げます。現下の情勢を鑑みますに、我が江馬惣領家に弓を引いた逆徒江馬常陸守輝盛は越中境目の有峰逼塞し、越後上杉の援兵を恃みに持久の構え。急ぎこれを抜き境目の路次を封鎖しなければ、北から越後、南からは三木の兵を受け、腹背を衝かれるは必至。この不肖時盛儀、先陣承りますがゆえ急ぎ兵を北に差し向けられたがよいと愚考致しますが如何に」

 との作戦を提言した。

 時盛は、武田を領内に引き入れ、その威勢を背景として、有峰に逼塞した江馬輝盛を討ち取ってしまおうと企てたのである。江馬累代の誇りを棄てて嫡子を人質に差し出した所以こそ、累年の敵である江馬常陸守輝盛を討ち果たすためであった。時盛が臆面もなく我田引水的な作戦を提言したのはそのためだ。


 しかしもとより越中一向一揆との連携を模索して奥飛騨の荒城郡に進出した飯冨三郎兵衛尉であるから、江馬時盛に言われるまでもなく、いまの勢いを駆ったまま越中境目まで進出するつもりであった。

 目指す先には江馬常陸守輝盛が重臣河上(かわかみ)中務丞なかつかさのじょう富信とみのぶ等とともに山籠もりをしている。行く手を阻むというのであれば、時盛風情に言われるまでもなく当然討ち果たしつつ北上するつもりであった。

 

 飯冨三郎兵衛尉がまさに北上の采配を振るおうとしたそのときである。

 一騎、本営に駆け込む使番つかいばん

 使番は言った。

「御屋形様(武田信玄)からの御諚。越軍、川中島に出現。飛騨派遣軍は急ぎ飛騨を陣払いし、本隊に合流せよとの仰せ」

 使番経由で信玄の下命を聞いた飯冨三郎兵衛尉昌景の決断は速かった。ほとんど反射的ともいえる速さで

「承知した」

 というと、先ほどまでは北に振るうつもりだった采配を、東に向けて振るったのである。


「そ……そんな……。越中派遣は、輝盛討伐は……」

 困惑する時盛を尻目に三郎兵衛尉はこう言ってのけた。

「我等いずれこの地に再び参る。それまでは地歩を固め、寸土たりとも失陥することのないよう励みそうらえ」

 飯冨三郎兵衛尉は時盛が差し出した人質、右馬允信盛を伴って、まるで地震が止み、或いは台風が過ぎ去ったのと同じように、荒城郡を踏み荒らすだけ踏み荒らして、何処かへと姿を消したのであった。

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